第一話
「獣人の酒だ? なんでそんなもんをオマエが知ってるんだよ」
リットがひときわ大きな声を上げたのは、いつもどおりの遅い朝食の時間だった。
パンを詰め込んでぱんぱんに膨らんだ頬と唇の隙間からノーラが言ったのだ。獣人が造る酒があり、それがとても美味しいのだと。
「私もたまたま聞いたんスよ、お客さんに。なんでも、今年は仕入れられなかったらしいですよ」
「なんだよ……ぬか喜びさせやがって。仕入れられなかったってことは、飲めねぇってことじゃねぇか」
「私に怒ったってしょうがないですぜェ。だけど、最近よく聞くんですよ。獣人のお酒の話を。一日一回は聞くんじゃないっスかね? オイルやマッチを買いに来る冒険者がこぼしって行ってますよ。なんなんスかねェ?」
「さぁな、冒険者にもトレンドがあるんだろうよ。わかってることは、冒険者がよく来るってことは稼ぎ時ってことだ」
リットがパンを残して立ち上がると、ノーラはさも当然のように食べ残しを自分の皿に移した。
「珍しいこともあるもんで。今日は朝から自分で店番っスかァ?」
「まぁな」とリットは振り返らずに言った。
「さては、獣人のお酒に興味があるんでしょ。旦那ってばわかりやすいんスから、もう」
「余計な推理に頭を使う暇があるなら仕事を増やすぞ。それが嫌なら、さっさと飯を食って配達に行け。カーターのところにイミル婆さんのところ。今日は配るところが山ほどあるぞ。夜が長くなってきたせいか、そこらでオイル切れだ」
リットは生活スペースのリビングから、ドアを一枚隔てた向こうの店へと出た。店のドアの鍵を開け、カウンターに座ろうと踵を返した時、窓に枯れ葉が舞っているのが見えた。
季節は秋。物悲しい風が音を立てて吹いていた。
いつもなら店を開けてすぐに入ってくる客はいない。いるとしても、ノーラに遊んでもらうことが目当ての子供か、冷やかしにローレンがやって来るくらいのものだ。
しかし、今日は違った。見慣れない冒険者の男が一人。店が開くのを一晩中待っていたかのように、すぐに店に入ってきた。
「助かった……。ランプのオイルが切れて困ってたんだ」
「オイルを売ってるのはうちだけじゃないぞ。わざわざ開くのを待ってるなんて、困ってそうには見えないがな」
「知ってる。先に回ってきたからな。なんでも臨時収入が入ったとかで、数日前から休業して出掛けてるらしい」
「なるほど……それでうちに客が流れてるわけか。労せず金儲けだな」
リットはカウンターに戻り、様々なランプのオイルが入った瓶を並べると、男は一つ一つどんなオイルなのかを聞いてきたので、細かく説明を加えた。
男が悩んで手にしたのは、オリーブオイルに少しだけ妖精の白ユリのオイルをブレンドしたもので、普通のランプに入れて使っても、明かりの範囲が少しだけ広がるというものだ。
リットは見本として火を灯したランプを消しながら「なんだって、そんなに真剣に選んだんだ?」と聞いた。
「この店じゃ、いちいち客に詳細を尋ねるのか?」
「まぁ、アンタが絶世の美女だったならスリーサイズを尋ねるのもいい。まさかアンタも獣人の酒を手に入れようとしてるのか?」
「アンタもだと……? まさか他にも手に入れようとしてる奴がここに来たのか?」
「うちのチビ助の話だと、ここ数日で増えたらしいぞ」
「大変だ……急がないと!」
男は突然取り乱すと、代金を支払ったランプのオイルを持っていくのも忘れて、店を出ていってしまった。
いったいなにが彼を駆り立てたのか気になったリットは「ノーラ!!」と大声で呼んだ。
「あいあい……」と返事をして、パンを咥えたまま出てきたノーラは「すぐに配達に行きますよォ」とやる気がない声で言った。
リットはパンくずで汚れた瓶をノーラから取り上げると、カウンターに座らせた。
「カーターのところにはオレが行く。だから店番をしてろ」
「旦那ァ……それならそうともっと早く言ってくださいよォ。そしたらご飯をゆっくり食べられたのに……」
「それ以上食ってどうすんだよ。冬眠でもする気か? あと、文句はオレに言うな」
「じゃあ誰に言えば良いんスか」
「そのオイルを瓶を取りに戻ってくる間抜けな冒険者だ。支払いは済んでるから、来たらただ渡せばいい」
他の客には適当にものを売れと言い残すと、リットはカーターの酒場へと向かった。
「おい、なんか隠してることがあるだろ」
リットは酒場に入るなり、届け物のオイル瓶の底をカウンターに叩きつけて言った。
「わかった認める……実は毎日じゃなくて、二日に一回しか頭を剃ってないんだ……。これでいいか?」
カーターは自分の頭をさすりながら言った。
「よかねぇよ。獣人の酒のことだ」
リットが椅子に座って長居をすることを決めると、カーターはもううんざりだとでも言うように天井を仰いだ。
「流行ってるのか? それ。酒場に来る冒険者はみんなそれだ」
「なんだよ、そっちも被害者か」
「リットのところにも来たのか? いや……他の店が休みだから、リットの店に行くしかないのか」
「そうだ、それも聞きたかったんだ。なんで他のランプ屋が休んでるか、詳しい話を知ってるか?」
「ただ運が良かったって話だ。たまたま、家の前に綺麗な石が落ちてたから、拾ってローレンに見せたところ。なんとそれは珍しい宝石の原石。それを売ったところ、しばらく店を開けなくてもやっていけるってんで、家族揃ってリゼーネの街の観光だとよ。なんと他のランプ屋も同じ理由だ。おどろいたね」
カーターはおどけて肩をすくめた。
「オレもランプ屋だぞ」
「言われなくても知ってるよ。真面目に働いてないのも知ってる」
「最近は真面目だろう。酒場にも来てねぇくらいだ」
「そりゃ、他のランプ屋が店を閉めてりゃ、忙しくなるだろうしな。よかったじゃないか。これで仲間外れはなし。ランプ屋全員が儲かったことになる」
「儲かるね……。そう言えばノーラが客から聞いたって言ってたな。今年は獣人の酒が流通してねぇって」
「のった!」とカーターは手を叩いた。
「何も言ってねぇだろう」
「リットが獣人の酒を手に入れて、オレに売るんだ。それでお互い儲けよう。そう言いたかったんだろう?」
「んなわけあるか。まぁ、高く売れるとは思ったけどな。手に入れようにも無理だ。何人もの冒険者が、競って探してるのに見付かってねぇんだぞ。そもそも本当に存在してるのかも怪しい」
「存在はしてるぞ。オレも知ってるからな。ただな……D・グイットより高い酒だ。なぜならそれはリゼーネの街の闇市みたいなところで売られてるからな」
カーターは言いたいことはわかってるだろと顔を曇らせた。
リゼーネの街は取り締まりが厳しい。城下町で兵士の移動が盛んということもあるが、多種族国家というのが直接の原因だ。種族文化の摩擦というものは日常茶飯事で、すぐに揉め事を解決できるように、兵士は街を警らしている。
闇市はその目をかいくぐるようにして開かれているので、裏情報に精通していなければ競売に参加することさえ出来ない。
「リゼーネだろ。エミリアはなにも言ってねぇぞ、お堅いアイツならなにか知ってそうなもんだけどな。そして、絶対オレに関わってねぇか聞いてくる」
リットは言われてもいない小言が頭に浮かんできたので、不快に顔を歪めた。
「兵士が知ってたら闇市にならないだろう。その酒が、どこで作られてるかも謎だ。だから冒険者が躍起になって探してる」
カーターがコップを出して、情報量として高い酒を注ごうとすると、リットは椅子から立ち上がった。
「わりいな。酒はまた今度だ」
「おいおい、まさか飲んで行かないのか?」
カーターは驚きに目を丸くした。
「これからイミル婆さんのところにも、オイルを届けに行くんだよ。昼間から酒の匂いをさせて行くほどオレはバカじゃない」
それからリットは真っ直ぐイミル婆さんのパン屋に向かったのだが、カーターのところで長話をして遅れたことや、オイル瓶がパンくずで汚れていることや、身だしなみが乱れていることを理由に小言を言われてしまい、自分の家に帰ってきたのは夕方になってからだ。
長く伸びた影を引き連れて、鍵を締め忘れられている店のドアを開けて戻ると、聞き覚えはあるが久しく聞いていない声の鼻歌が聞こえてきた。
カウンター裏のドアを開けてリビングに入ったリットの目に入ったのは、長く伸びた尖った耳の影が、今か今かと待ちわびてピクピクと動いている影だった。
そして、その人物はリットのため息をかき消すように抱きついた。
「いやー大きくなったね。感動しちゃうよ私は……なんて言ったって、リットが赤ちゃんの頃から知ってるんだからね」
リットは頭を撫でてくる手から逃げるように距離を取ると、はっきりとため息を彼女に聞かせた。
「クー……しょっちゅう顔を見せに来てただろう。親父にオレの近況を知らせるためによ」
無視して、もう一度抱きつこうとしたクーだが、リットに尖った耳を引っ張られるとくすぐったそうにして離れた。
「もう……乱暴者のところは相変わらずだね……エルフの耳を引っ張るだなんて」
「ダークエルフだろ。それも、性根の腐った」
「ダークでもエルフはエルフ。根が腐るだなんて言い回しはどうかと思うよ。……それにしょっちゅう来てたのは昔の話。せっかく寄っても、肝心のリットがいないんだもん。そんな久しぶりなのに、ここの家じゃ客人にお茶も出さないのかね? ん?」
クーが顔を近づけて首をかしげると、リットは薪を取りに中庭へと出ていった。
クーはリットの背中を見て満足そう頷くと、椅子に座って汚れた上着を脱いで適当に投げ捨てた。ダークエルフ特有の浅黒い肌は、夕焼けに照らされて艶かしく光った。
「客なら、店が開いてる時間に出直してこいよ。クーが来るとろくなことにならねぇ……」
リットは薪を入れて火をつけると、水の入った鍋を火にかけた。
「あらら……そんなこと言っていいのかなー? 誰がカレナリエルの薬草学本を手に入れてあげたのかな? 誰がこの世界には面白い光がいっぱいあるって教えてあげたのかな? 誰がうんちを漏らしたおむつを替えてあげたのかな? 懐かしいなぁ……。あの頃はまだ小さくて、私の小指ほどもなかったんだよねぇ。今はどう? せめて親指くらいにはなった? どれどれ、ちょっくらお姉さんに見せてみなさいな」
クーが椅子をガタガタ揺らしながらリットに近付くと、クーのボサボサな短い黒い髪から土と草が落ちて床を汚した。
「おい、クー。話が脱線してるぞ……」
言ってからリットは後悔した。クーがしてやったという悪戯な笑みを浮かべたからだ。
「ほら聞きたがってるじゃん。聞きたいよねー。興味津々でしょ? そうやって教育してあげたもんねー。ばっちり話してあげるからさ。お茶を入れてからにしようよ。ハチミツも入れてね。ノーラもそろそろ戻ってくるでしょ? 彼女の分もちゃんとね」
クーがニッコリ笑うと、リットはうなだれた。こうなると自分が満足するまで、てこでも動かないことを知っているからだ。
それは『シャレー・クー』とリットは深い繋がりあるから知っているのだ
そもそもクーはリットの父親であるヴィクターの冒険者時代の仲間だ。ヴィクターが引退してパーティーは解散したものの、良い友人関係は続いていて、時々会ってお互いの近況を話す仲だった。
そのうちヴィクターとセレネの間にモントが生まれると、子供の話が増えてきた。そして、第二子スクィークスが生まれたて少し経った時、実はもうひとり息子がいると知らされていた。
その子供がリットであり、お城で暮らさないリットの様子を、ヴィクターの代わりにクーが見に行くようになった。
オムツの頃から知られているので、リットはクーには頭が上がらない。他にも思春期の恥や過ちというものも一通り彼女には知られてしまっていた。
そして、その関係はリットが実家を出て、この町でランプ屋を開いても変わらない。
なので、リットがお茶を淹れる後ろ姿を見て、クーが来ていることはノーラにわかった。
ノーラは家に戻るなり「旦那ってば、イミル婆ちゃんとかクーとか、年上の女に弱いっスねェ」と笑った。
「その続きは、店番をサボってどっかに行ってた言い訳に繋がるなら聞いてやる」
「旦那が戻ってこないから、他の家にオイルを届けに行ってたんスよ。旦那こそ、それ以上言いたいことがあるなら、クーを通してからにしてくださいな。あとお茶も早くっス。もう、喉が渇いて渇いて」
リットの弱みはクーだと知っているノーラは、彼女の隣りに座ってお茶が来るのを待った。
リットはお茶の入ったカップを二つそれぞれの前に置くと「それで、なにが目的で来たんだよ」とクーに聞いた。
「私だって早く話してあげたいけどね。ハチミツが入ってないよ」
クーは急かすようにスプーンでコップの縁を叩いて鳴らした。
リットはため息を一つ挟むと、チルカが隠していったハチミツの瓶を取って、クーの目の前に置いた。
「ほらよ、好きなだけ使え」
「気前が良いね」クーはビンのフタを開けると、匂いを嗅いで気持ち良さそうに目を細めた。「これはなかなかセンスの良いフラワーブーケだね。リットの趣味?」
「一時期うちに住み着いた妖精のだ」
「あー……あの口の悪い妖精ね」
「あーって、会ったことねぇだろ」
「会わないようにしてたんだよ。ダークエルフが嫌いっぽいしね。冒険者ならトラブルの元は回避だよ」
「毎回トラブルの原因を作ってる張本人がなにを言ってんだよ。つーかよ……その茶も、ハチミツも話題に花を咲かせる為に出したんじゃねぇんだよ」
「もう、わかってるって。でも、まず一口飲んでから。せっかく淹れてくれたんだから」クーは淹れさせたお茶をマイペースに半分飲んでから、本題を切り出した。「私がここに来た理由っていうのは、他の冒険者と同じだよ。お宝探し」
「それって、獣人の酒か?」
「そうそう。ズバリ聞いちゃうけど、手に入らないって言われてる獣人のお酒。飲んではみたくないかね?」
クーはリットの答えがイエスなのはお見通しなので、どんな言い訳をしてから頷くかと楽しみに笑顔を浮かべていた。
その表情で、クーの言いたいことがリットにはわかっていたので「……なにをすればいいんだ」と聞いた。
「一緒に仲良くお手々繋いで、お酒を取りに行こうって話だよ。まぁ、詳しいことは明日。さぁ――今日はとりあえず町のお酒を飲みに行くぞー! おー!」
クーはリットの肩を逃さないように抱くと、ぴったり体をくっつけて家を出ていった。