別れの予感
忘れてはいけない。
闇に生きる者は闇でなくてはいけないと。
光と混じればそれはもう闇ではないことを…。
――深夜。
寝静まったアイラに目をやると、Kは漆黒に身を包み影へと身を堕としていく。
「仕事は成した」
誰もいない空間に言うと、それに反応するようにスピーカーから声が流れてきた。
『…早いじゃないか。殊勝だな!』
面白がる声はどこか嘲笑を含んでいて、思い当たる節がないKの中で苛立ちが広がり眉をかすかに寄せた。
平静を装っても内心は決して穏やかではいられないことを相手は知っている。熟知していると言っても過言では無いのに、ワザとこういう態度を取ってくる時は突っ込まない事が一番だ。こういう奴だから諦めろと自分に言い聞かせしかないんだと、さっさと本題に入ることにした。
「情報は?」
『あぁ、そうだったな。ふっ‥そんに心配をせずとも既に入手済みだよ。……我々は決して約束を違えない』
自負するその言葉は虚言ではない。虚言にしないためにも、今日のように組織の裏切り者には制裁として死の制裁が下る。
『榊原雄二には1人、兄がいるぞ』
アイラの父・雄二は、アイラの叔父に当たる人物。
彼女を天涯孤独にしたわけではない事は自分への救いだった。それだけで犯した罪が薄れる気がする。
『名は榊原彰』
もったいぶるような間の後に声はそう告げた。
「…1人だけか?」
母方の姉妹や祖父母に当たる人物がいても良いはずだ。逆に1人しかいないというのは不思議だ。
『おいおい。家系図をどこまで辿らせる気だったんだ?夫妻の交流がありそうな範囲は全て調べたぞ』
笑いながら言う声に怪しいところはないし、組織の情報網は半端ではなく闇に少しでも触れた人物の痕跡や親類縁者くらいならば簡単に辿ってしまう。
何も彼氏彼女や同級生まで調べろと言っているわけではないのに、叔父の榊原彰しか見つからなかったのなら、やはりそういうことなのだろう。
しかしやはり、身内と呼べるものが一人しかいないというのは変な話だ。信を置いている組織の情報にも疑問を抱かずにはいられない。
また、仮に他に身内が存在したとして、組織ですら見付けられなかったのならば自分はどう足掻いたって探し出すことはできない。
それにそんなに身を隠さなくてはならない人物は決して普通の生き方はしていないだろうから。
「そうか…」
頷いてKが踵を返す。
『そうそう。榊原彰は都内の高級住宅街に住んでるよ。お前の住んでいるマンションからもそう遠くない』
声はKを引き留めた。ぴたりと立ち止まり、訝しげに誰もいない部屋を振り返る。
「…」
『なぁに。サービスだよ、サービス』
Kの反応を伺い、嘲笑うような声音。スピーカーを鋭く一瞥すると、Kは無言で後ろ手に扉を閉めた。
*・*・*・*
部屋に自分以外が発する音があるというのは不思議な感覚だ。それを許している自分もよく分らないが。
安らかな眠りにつく少女はベットに入る寸前まで夜景に見入っていて、あの光は何の光かとひっきりなしにKに質問をぶつけた。
一つ一つ丁寧に返すのはちょっとした重労働だったが、物珍しそうに目を輝かすアイラを見れば答えてやらずにはいられなかったのだ。
言いにくい答えにKが苦い顔をして言葉を詰まらせたのは言うまでもない。
警戒心の無い寝顔は、見ているこちらまで心を和ませる。すーすーと規則的に聞こえる寝息は長い安らぎを暗示しているようだ。
Kは無意識にベットの側まで近づくと、無機質な瞳でアイラを見つめる。
そこでふと胸に抱かれているシロクマのぬいぐるみに気づき、Kは目を見張る。物にそこまで執着できることが不思議でならないし、何よりどうしてシロクマなのか。ネコもキリンも枕もとにいるが、小さな胸に抱かれているのはシロクマだけだ。
Kにとって大切にしているものは愛用のナイフだが、刃毀れすれば未練なく買い替えられるし、捨てられる。
それは所詮モノで、自分も同じ存在価値だと分っている。
用済みになったり使い物にならなくなれば容赦なく切り捨てられる。上手く機能していれば生かされる代わりに使われる。
そんなものだ。その扱いに昔も今も不満はない。
それよりも、今は胸がざわめく。
彼女が大事そうにシロクマのぬいぐるみを抱きしめているのを見ると、自分が包まれているかの様な錯覚に陥る。
それは不思議な感覚で、抱きしめられることを知らない自分が何故それが想像でき、心が苦しくなるのか……。
優しく胸を包まれる感触を有り得ないと無意識に拒否し、その度に包む手はきつく胸を締め付けてくる。
躊躇いがちに手を伸ばし額にかかる髪を払ってやるとアイラが小さく身じろいだ。起こしてしまったかと慎重に手を引くが、すぐに寝息は規則的に戻った。
ベットから離れソファーに深く身を預けて深く息を吐くと肩の力が抜けていくのを感じた。
それでも眠気が襲ってくることはない。静かに目を閉じ、眠りに落ちるのをずっと待つ。少女の寝息はすごく安らぎをもたらし、いつもよりも早く睡魔を呼び寄せた。
しかし、今までにないくらい安らぎの空間であってもKが深い眠りに就くことはできず、心の奥底で興奮し続けて少女が寝返りをうつ度に目が覚めてしまった。
そんな状態であっても今夜はよく眠れているとKは思う。規則的で穏やかな寝息は平和を象徴しているようで、安心しきった彼女に引っ張られそうになる。
けれど長年張りつめていた神経はそう簡単に休まることを許さずに浅い眠りだけをKに与えた。
翌朝。アイラは何かを焼き弾けるような音で目が覚めた。うっすらと意識を覚醒させると、空腹を刺激するいい香りが漂ってきた。
のろのろと布団から抜け出しリビングへと出ると、台所にKの姿があった。
「おはよぉ…」
「あぁ」
コトンと、テーブルに目玉焼きと湯気の立ち上るご飯を置いた。
「朝ごはんもこれなの?」
「そうだが…?」
目玉焼きとご飯。
確か、昨日の夕飯もこのメニューだったはず。今までは同じおかずが続くことなどなく、旬の食材を使って調理されたさまざまな料理ばかりを食べてきたアイラにとっては不思議なことだった。
この前まで家で食べていたいろんな食事が懐かしい。和食ならばこれに味噌汁ともう一品おかずがついていたのに。
それでも目玉焼きは好きだから、ぱくぱくと食べ進める。
怪訝な顔をするアイラに対し、Kは何故そんな質問をされるか分らないと言った顔をしている。要望通りのごはんにおかずまで作ったうえ、昨日の夕飯では美味しいと喜んでくれたのに、と。
「ケイ、お昼は?」
夕食・朝食とこのメニューが続き、思い起こせば食材は米と卵以外Kは買っていなかった。好き・嫌いというよりも飽きてしまう。
しかし、Kは米と卵がある限りずっとこのメニューを続けるつもりでいるし、事実、食に無頓着な彼は一か月以上同じ献立でも平然と食べ続けてきた。与えられれば不満もなく文句も言わずに食べられる。食事は所詮生命維持活動の一環で、美食家ではないので食を楽しむ習慣もない。
「まだ分らない。今日は少し出かける予定がある」
「アイラはお留守番?」
「いや。食事が済んだら、お前も一緒に連れていく」
「やった!お出かけだぁ!」
外出の目的など知らず満面の笑顔を見せると、アイラは慌ててご飯を食べ進めた。口の周りにご飯粒がついて、Kは手をのばして口元をぬぐってやる。
「ありがとぉー!ごちそうさまっ」
ペロっと唇を舐めると、食器をシンクに持って行ってくれた。
その後ろ姿を眺めながらKは複雑な気分で箸を運んだ。1口2口とごはんを食べ目玉焼きを突ついてみたりもしたがすぐに食事をやめた。
「ケイ、調子悪いの?」
「そういうわけじゃない。気にするな」
心配そうに見上げるアイラにぎこちなく笑って誤魔化して、Kも食器をシンクに突っ込んだ。
*・*・*・*
電車を使い目的地まで向かう。
地下鉄から見える景色の変化は少なく、けれど僅かな変化を見つけようとアイラは必死らしい。椅子の上に膝立ちし窓に張り付きながらはしゃぎっ放しのアイラを制止しきれず、Kは座席から落ちないかだけを心配しながら揺られていた。
他の乗客はアイラを無邪気で愛らしい子供としか見ておらず、今のところは問題なさそうだ。
「―――うるせぇッ!!」
突如響いた怒声に、車内は鎮まり注目が一点に向かう。
向かいに座っていた男にKも視線を上げた。先ほどまで寝ていた男は、アイラの声で目覚めてしまったらしく、苛立ちを隠そうともせずに血走った目でアイラを睨みつける。
アイラは初め目を瞬かせて驚いていたが、自分が怒鳴られたと分ると途端に目が潤み始めすぐに大粒の涙が零れ落ちた。
Kの袖を弱弱しく掴んで縋りつきながらしゃくり上げるアイラの背中に軽く手を添えると、眉根を寄せ射抜くような視線を男に送る。
凍てついた瞳の放つ光はまともに受ければ身動きを止めざるを得ないものだった。
しかし男は虚ろな瞳をアイラばかりに向けていてKのことなど眼中に無いようだ。
「さっきからピーピーと!大人しくしてろや!!」
凄い剣幕でアイラを睨みつけ怒鳴る様は、これが大人のやることかと呆れるばかりだ。すっかり怯えてしまったアイラは謝罪の言葉すら出せずにただ泣いている。
周りの乗客は我関せずの状態で目を逸らし、時折好奇心と憐みの視線を向けてくる。
――無性に腹が立つ。
沸々と沸き立つ苛立ち。静かな威嚇に男は気づく様子がない。
「おい、てめぇ…」
謝りもしないアイラにキレた男は座席から立ち上がり、アイラに近づいた。ビクッと肩を震わせ、さらに強くKに寄り添う。
「…何だ?このガキのお兄ちゃんってやつか?」
男は酔っていた。吐く息に酒の臭いが混じていて目も充血している。
その姿は昨日殺した佐々木と三田を彷彿させ、そうなるとたちまち不快感が胸を占め苛立ちも増す。
Kはアイラを背に庇うように立ち上がると男と対峙した。
酔いと電車の不規則な揺れで足もとの覚束ない男とは反対に、Kは不思議なくらいしゃんと立っていた。
冷めた目はただ男だけに注がれている。
こんな男を殺すのは造作もない。それこそ、一瞬のうちに。
流石にこの場で殺すことはできないが痛い目を見させる事くらいは許されるだろう。忍ばせているナイフに頼らずとも、こんな男くらい、簡単に――。
血ダルマにされるか否かはKの判断次第なのだが、男はその事にもKの纏うオーラにも気づかない。
周りの乗客は居心地悪そうに目を逸らしている。関わりたくない、早くどうにでもなってくれ、という感じがひしひしと伝わってきた。
男が一歩近寄り、Kも腕を持ち上げようとした時――
「…ご、ごめんなさ、い…!」
蚊の鳴くような声が発せられた。聞き逃してしまいそうなほど震える弱い声だったがKの耳には確かに届いた。
殺意にも似た熱がスーっと引いて、視線を下に落とす。
「あっの、ごめんなさい…うるさくしちゃって…ごめんなさい…」
謝りながらも瞳から大粒の涙が溢れ出しているし、裾を握る手も小刻みに震えている。拭われることのない頬はすっかり涙で濡れていて幾筋もの跡ができている。
アイラは男の怒りと、Kの男を射殺してしまいそうな雰囲気の両方を敏感に感じ取って怯えていた。
しかし酔った男はアイラには目もくれず、怒りの矛先をKに移して睨みつける。
もう戦る気が失せたKは自身の後ろに隠れるように立つアイラに手を伸ばした。
殴られると予感したアイラは身を固くしたが、添えられた手は予想外に優しいものだった。戸惑いつつも頭を撫でて慰め、それからそっと二の腕を引いた。
「降りるぞ」
タイミングを図ったような機械的な車内アナウンスが流れた。本来下車する予定の駅の一つ前だが、あとはタクシーを使えばいい。
間もなく停車し、ドアが開く。
「てめぇ、待てや!」
まだ話は終わっていないと、男はKとアイラの後を追って下車しようとした。
Kは面倒くさそうに振り向くと、長く柔軟性のある脚を男の鳩尾に喰らわせた。
防御することもできず男の体は車内に押し戻される。低い呻き声と同時にぐったりと通路にうつ伏せったまま気絶してしまった。
アイラは茫然と目を丸くし息を呑んだ。他の客もさすがに黙っていられなくなったらしく男に駆け寄ろうとしたり駅員を呼んだりと車内は慌ただしくなった。
しまったやり過ぎたか、と反省するKの背後で扉は閉まっていった。
「ケイ、怒ってる…?」
気まずい空気がタクシーの中に立ち込めていて、それを打ち破るようにアイラは小さく尋ねた。
あの場から逃げるように立ち去る間、アイラはじっと押し黙ってKに手を引かれるままここまできた。
「…、何故?」
あの男とは違い、自分はアイラを怒鳴ることも睨むこともしなかったし、アイラの行動を自分は容認していた。
それに、今はアイラに対しても男に対しても苛立ちを感じていないし、あんなくだらない奴の事をぐだぐだ引きずるタイプではない。だから怒っていると思われるようなことは何もないと思うのだが…。
Kは怪訝な瞳で横に座るアイラを見つめた。
「だって…ケイ、怖かったもん……」
すっかり涙線の緩んでしまったアイラの瞳はまた潤み始めている。
「俺が…!?」
予想外の言葉に狼狽し、零れそうで零れない涙がKの心を不安定に揺らす。
自分はこんなに人の顔色を窺う性格だっただろうか?
「そんなことはない」と言おうとして、でもそういえば最後にあの男を蹴り倒した時にアイラは少し怯えていたと思い出してその言葉をつぐんだ。もうちょっと手加減していた方が良かったと溜め息交じりに改めて後悔する。
「ちょっと、虫の居所が悪かっただけだ」
あながち嘘ではない答えを返した。もっと気の利いた言葉が言えればどんなに楽か。
言葉にできない気持ちが喉に詰まるのはすごくもどかしかった。
それでもまだ気にしている様子のアイラの頭にそっと手を置くと、ぎこちなく撫でた。
慰め方など知らず、記憶の隅から行動を掘り起こした。
上手く仕事をこなすとこうやって頭を撫でられていたような気がする。あまり嬉しくも感じなかったが、こうするものなのだろう。
けれどアイラは頭を撫でられるのが嫌いではないらしくほっとしたように小さく微笑んでくれた。
涙の跡が残るその笑顔は、どんな笑顔よりも無邪気で純粋なもののように思えた。
*・*・*・*
そこは閑静な住宅街で、どこからか犬の鳴き声が聞こえてくる。井戸端会議に没頭する主婦たちを何組か通り過ぎ、一つ一つの表札を確認していく。
大体の位置は掴んだが、何せ高級住宅街。一軒一軒の広さが半端なく、隣の家に行くまでにかなりの距離がある。高い柵に囲まれたそれらの家はセキュリティー設備が万全だ。警備会社のシールがいたる所に貼ってある。
アイラも塀ばかりでは飽きたらしく溜め息を吐きながら歩いていて、Kも彼女の様子を注意深く窺いながら歩くペースを調節した。
「ケイー、まだぁ…?」
何度目かの質問。疲れが声に滲んでいる。
「この家だ」
やっと着いたのは他の家に比べると少し小さくさえも感じる家。しかし、この土地に居を構える事ができる人間のほうが少ないのだ。高級住宅に変わりない。
インターホンに手を伸ばし、直前で指が止まった。アイラが怪訝な顔でKを見上げている。
人の気配を感じるし、押せば必ず誰かが迎えてくれるだろう。そう知っているからこそ、押すことが躊躇われた。
しかし、いつまでもそうしている訳にはいかず、軽く力を入れてボタンを押した。
『――ハイ?』
「榊原彰…さんと話がしたい」
『え…?旦那さまとはどういった…??』
応えたのは女の声だった。家政婦の女なのか、カメラ付きのインターホンから見えるKの黒づくめの格好を訝しがっているのは間違いない。
「榊原雄二のことで話がある」
『……少々お待ちくださいませ』
そう言って声が切れた。
ふぅ、と吐くと、アイラが説明を求める眼差しを向けていた。何の前触れもなく父親の名前が出たからだろう。
「…」
声に出して聞かれない事を良いことに、Kは目線を外し玄関を見つめた。
『どうぞお入り下さいませ』
インターホンからもう一度声がするとキィと鉄の扉が開き、玄関までの道が開かれた。
アイラは先程の疑念も忘れ好奇心に目を輝かせながら、間隔のあいた石畳をジャンプしながら進む。Kもその少し後を追う。
玄関前で立ち止まると、ドアが開き中年の女性が2人を迎えた。
「奥へどうぞ。旦那様がお待ちです」
折り目正しく頭を下げ、2人を招き入れる。声はインターホン越しに応対してくれたものと同じだ。
スリッパを差し出され、足を入れると磨き上げられた廊下を進む。
大人用のものしかなく、アイラはかぽかぽと音をさせながら不安定に歩き途中何度か転びそうになるのをKはさり気無く支えてやった。
応接間に彰はいるらしい。
2人を先導する家政婦はそれだけ伝えると無言のまま奥へと進んでいき口を開く様子はなくなった。
「…お父さまとお母さまがいるの?」
家政婦はアイラのことなどお構いなしに自分のペースで歩く。
小走り気味のアイラを気遣ってゆっくり歩いてやるが、質問には聞こえない振りをして視線を前だけに固定した。アイラがしつこく聞く事は無かった。
「こちらでございます」
家政婦はある一室の前で足を止めるとドアを数回ノックした。
「旦那さま、お連れいたしました」
どうぞ、と扉越しに声が聞こえてくると、家政婦は扉を開けた。
その部屋は明るい光が窓から差し込む接間に相応しいものだった。調度品も決して粗末な物ではなく、どれも値が張るだろう。
家政婦は一礼すると来た道を戻っていく。
「始めまして、のはずだな。弟…雄二の友人かい?そんな風には見えないが…」
頬笑みを浮かべながら榊原彰は座っていたソファーから立ちあがった。彼は、弟の雄二にどこか似ていた。眼尻に入った皺は年齢によるものだけではないだろう。
故・榊原雄二の兄といえど、年はそんなに離れていないようで、垂れ下がる眼尻はこの地位を築くまでの苦労を物語っているようだった。
人の良さそうな笑顔を浮かべながらKとアイラを見定めている。面識がなく、明らかに会社関係者という訳でも無さそうな2人を態度に出さずとも不審がっている。
「雄二が亡くなったのは聞いているかい?」
「…はい」
「なくなった、って?」
彰は重々しく言い出し、Kは浅く頷いた。隣に腰かけたアイラは首をかしげ語句の意味を推測している。人が“亡くなる”という言葉には馴染みがなかった。
Kはそんなアイラを見る事が出来ず、説明してやることもできなかった。視線を彰付近に彷徨わせて場が流れるのを待った。彰は人の死の意味すら理解していない少女を不憫な目で見つめている。
「…。説明は、あとでお兄さんにしてもらいなさい」
彰は苦笑交じりに優しく諭すように言って、Kに視線を移した。Kは迷惑極まりないと憤慨しながら、それを表に出さずに目を伏せた。
頼まれたところで、説明する機会があるはずもない。それは彰の役目になるものであって、その意味をアイラが理解した時にはもうそばにはいられないのだから。
「ところで、今更だが君たちは誰だね?そろそろ自己紹介をしてほしいのだが」
子供連れという理由から危険人物でないと判断し招き入れたが、不審者だ。彰は2人の顔を順番に見る。
黒づくめの姿は光のもとには似つかわしくない。表情は乏しいというより暗い瞳の仮面をつけたまま変化をしていない。一般人を装っているつもりなら、明らかに普通では無い。幼い少女が警戒心無く連れ添っているのが彰には不思議でならなかった。
勘の良い彰はKの発する常人とは異なる雰囲気、佇まいに本能的に危険を感じていた。
「こいつに見覚えはあるか?」
「…?」
Kはアイラを前に押し出すようにして彰と向き合わさせた。
彰がじっとアイラを見つめるが、やがて首を振った。
「申し訳ないが覚えがない」
「だろうな。今までずっと人目に触れずに育てられてきた」
「……何が言いたい?」
彰の眼光が鋭くKを射抜く。一瞬見せかけの優しさは消えて低く脅すような声音になった。けれどそれもすぐに元の優しげな顔へと戻った。
言葉の真意を探ろうとKとそしてアイラを交互に見やるが、やはり分らずに首を振った。
ただ、アイラには何か引っかかるものを感じた。今が初めて会って面識も全くないはずなのに、そんな気がしない瞬間があるのも確かだ。ぱらぱらと記憶のページをめくって少女の影を探そうとするが、どこにも見当たらなかった。
わ か ら な い か ?
Kは無言で問いかける。
いつもの自分なら用件のみを伝えすぐに事を済ませてしまうのに、今日の自分はどうも事を引っ張りたがる…。
アイラを凝視していた瞳がぱっと見開かれた。
「――!ま、さか…?雄二の?いや、でもアイツに…?」
困惑した瞳はアイラに、そして確認を求めKへと移った。
彰は何か言いたげに口を開いては、「いや、まさか」と首を横に振り否定しながら落ち着こうとしている。
アイラは何の話をしているのかとKに問うような視線を投げかけるが、Kは正面の彰に向けられていて視線を下げようとはしてくれなかった。疎外感を感じてむっと唇を尖らせた。
「私のはずはない…雄二の、か?…もしかして、君も…!?」
眉間にしわを寄せたまま彰は訊ねた。瞳の奥がゆらゆら揺れている。
「俺は、違う」
その返答で全てが分ったと、彰は深く長い溜め息を吐いた。こめかみを押さえ、頭を振った。沈み込むようにソファーに腰を落ち着けると、やっと一つの答えが明確に浮かんできた。
「雄二の娘か……」
疲れ果てたような声が漏れた。縦皺をくっきり刻んだ顔をゆっくりと上げ、アイラを見る。そしてやはり違いようのない事実にため息を漏らした。
あぁ、アイツの小さい頃の面影がある…、と彰は改めて感じた。目元なんかは特にそっくりだ。
姪だと認識すればするほど共通点が浮かび上がり、その度に確信へと繋がった。
「…その娘の名前は?」
「アイラ」
両親に洩らすなときつく言われ続けていた名前を、誰にも言わないと約束したKが簡単に口を開いてしまったのだ。アイラは驚き、そして両親に怒られてしまうと泣きそうになりながらKの袖をひっぱり見上げた。
「ケ――っ??」
ケイ、と言おうとした口を素早く塞いだ。行き場を失った音はKの掌に吸い込まれた。
不審なKの行動にも、彰は目の前の事実を整理し受け止めることだけで精いっぱいで気付かなかった。
「証拠はあるのか?…あぁ、そんなのDNA鑑定でもしてしまえばいいか」
そんなことしなくてもあの目元は弟にそっくりで、遺伝しているとしか思えないが。やるだけ無駄だということは分っている。それに、隠し子なんてあいつのやりそうなことだ。
自問自答して彰は苦笑した。
「それで。アイラちゃんが弟の娘らしいのは分った。…君たちは私に何を求めるんだい?」
ゆっくりとアイラの口から手を離し、黙っていろ、と視線で告げる。
不満げできょとんとしたアイラの頭上にはクエスチョンマークが見えそうだ。そして勝手に約束を破られて怒ってもいるようだった。
そんな表情も、笑うか泣くかの顔しか見ていなかったから新鮮に感じる。
「君がこれまでこの娘…アイラちゃんの保護者代りだったのだろう。雄二からの援助が絶たれたから私に頼みに来たのか?」
彰は指で膝をトントンと叩く。金銭問題の笑いになると、ほんの少し瞳に翳が差したのをKは見逃さなかった。金には貪欲な人物なのか。
黒づくめの男はひどく肝が据わっているが、そう年齢は高くないだろう。青年と表現できる。顔の造形は美しく、身のこなしや振る舞いも悪くはないのでそこを買われたのかもしれない。
けれど若造が、この時代に子供一人育てる事は容易では無い。
それに早々に気づき私に援助を求めてきたことは的確で優秀な判断で、容易に予想できる。
何を考えているか分からない顔をしているが、腹のうちは案外単純なこと。いきなり訪ねてくるのは礼儀知らずだとは思うが、最近の若者なら仕方ない。
「アイラを、貴方に引き取ってもらいたい」
真摯な瞳のKに彰は驚きの眼差しを向けた。
Kの隣にちょこんと座る少女は、彰を観察しながら2人の言葉に耳を傾けている。混ぜてもらえない会話は諦めたのか、応接間の不思議な絵画や幻想的な写真に視線を彷徨わせて気を紛らわせている。
彰は聞き間違いかと耳を疑った。
予想していたものとは違った。そしてあまりにも突飛過ぎではないだろうか。
「どういうことだね…!?」
「俺のもとにアイラを置くことはできない」
きっと堪える事は出来ない。無垢な瞳が憎悪に染まる様を、直視できるはずがない…。
遠くない未来。アイラは両親の“死”を知り、俺が“殺した”ことを理解する。
近しい者を殺された人が抱く感情も向けられる視線も嫌というほど熟知してしまっている。
「急な話だとは分かって頼みに来ている」
今は無用な考えを追い払うと、再び困惑に揺れる彰の視線をまっすぐに捉えた。
「……。私は、一向に構わないよ。妻だって子供は好きだし、幸か不幸か私にはまだ子がない」
Kは頷く。それも調査済みだ。
彰の妻は子供を産めない体で、その事を気に病んでか病院に通っていた時期もあったということも。けれど結局今まで子を成すことはできなかった。
今まで知らなかったとはいえ、姪にあたるアイラはそう拒絶されないだろう。それにアイラは聞き分けも良く、よく笑う子でその場を明るくしてくれる。彰と彼の妻との間でもすぐに馴染んでうまくやっていってくれると思う。
「だが、この子はそれを承知しているのかね?離れたがっている様には見えんぞ」
ぴったりと寄り添う様にKの隣にいるアイラ。いつの間にか部屋の観察には飽きたのか、Kを見上げていた。
それに、Kもアイラを鬱陶しがっている様子は見られない。けれどやはり遊び盛りの青年は表に出さないだけで内心はアイラを邪魔に思っているのだろうか。
「君はアイラちゃんにとって兄のような存在で、君もそう思っているんじゃないのかね?」
兄のような存在?
Kはその言葉に思わず失笑した。彰は不思議そうにそれを見る。
一秒たりともそのような地位に就いた事は無い。
俺は彼女の両親を殺した暗殺者であり、アイラにとって憎むべき存在なのだ。それ以外の何者にも成りえない。
住む世界の違う、相いれてはいけない相手。
現在のアイラの意思は分らずとも、この先どう思われるかを身をもって知っている。
向けられる憎悪の感情を知っている…。
離れたいとか離れたくないではなく、離れなくてはならないのだ。
―――それは自分のために。
一種の逃げともいえるがそんなことはどうでもいい。
「…この子には時間をかけて私が説明しよう」
「あぁ」
Kの自嘲的な笑みの意味をどこまで理解したのかは分からないが、彰は深い訳があることを察して全てを引き受けることを承諾してくれた。
「彼女の荷物はどこに?業者を向かわせるが…」
「無い。服も今着ている分しか持ち合わせがない」
どこに保管されているのかは分らないが、あの家にあるのは確かだ。だが、子供服くらいを買う余裕は彰にはあるから心配はいらないだろう。
アイラの過ごしていた部屋を知らないため、案内しろと頼まれることは避けたい。
「…帰る。アイラを頼む」
言えた義理ではないと分っているが、頼まずにはいれなかった。
帰ろうと身を翻すと、アイラも覚醒したように踵を返した。話から除外され続けて暇そうにしていたがもうそれも終わりだと思うと顔が明るくなる。
「もう用事おわり?帰るの??」
服の裾を後ろに引いて、Kを引き留め訊ねた。
一歩を踏み出しその手を振り切る事は容易だが、体は言う事を聞かなかった。思わず立ち止まってしまったものの、Kがどうしたものかと困ってアイラを見下ろしていると、彰はアイラに近寄りしゃがみ込むと、優しく諭すように言った。
「君はここに残るんだよ」
けれど努めて優しく言っているのだろう彰の言葉は、違和感を感じずにはいられない。優しい言葉には不慣れなためにそう感じるだけだろうか?
「なんでー?」
アイラはくるっと彰を振り返ると首を傾げてみせた。きょとんとした瞳が彰に向けられる。
白く柔らかな手はしっかりとKの裾を握ったままだ。
「今日から私と一緒に暮らそう。雄二ほど贅沢はさせてあげられないが、不便はさせないよ」
例え彰の優しさが見せかけだけであっても、少なくとも自分といるよりは幸せになれる。普通に暮らすことがアイラにとって一番良いことだ。
人を殺すことだけを教わってきた俺にアイラを育てる事はできない。命令に従うことが自分の中の常識で、殺しをすることにはまったく抵抗がない事は表の世界でも、いや、裏の世界でさえも普通ではないということは何となく分かっている。
――いつか俺はアイラを殺してしまうかもしれない。
ふとした気の迷いが起こるかもしれない。そうでなくても危険は付きまとう。自分の存在自体が陰惨で危険な存在だ。
もしもアイラを手に掛けるようになったら、もう戻れないような気がする。
得体のしれないモノに捕らわれ、今以上に狂った殺人鬼と化してしまうような…。そうだけはなりなくないと考えている自分が不思議でならない。
「やだッ!!!!」
しんみりとし始めた空気を裂いたのは甲高い涙声だった。視線をやると真っ赤な顔をして唇を震わせているアイラがいた。
「ケイと一緒がいい!!ケイと帰るっ!!!!」
Kがアイラの口を塞ぐ前に言葉は溢れ出す。
すぐに大粒の涙が溢れ出し、頬を濡らす。鼻をすすってしゃくり上げている。うーっと唸りながら溢れる涙を拭おうともせずに肩を震わせる。
「ここに居た方がお前のためだ。言う事を聞け」
「やだぁ!やだぁ!!」
再び声が響き、Kはその勢いにたじろいだ。しゃがみ込んで視線を合せていた彰に背を向け、Kの足にしがみつく。
ここまで駄々をこね、我儘を言う子供ではなかったはずだ。好奇心旺盛ではありにせよ、聞き分けは良かった。人が困っていると察すればこちらがバツが悪く感じるほど我慢できる子ではなかったか。
「シロクマさんだってキリンさんだってネコさんだっていないもんっ!!」
あぁ、とKは思い出す。
買ったばかりのぬいぐるみをアイラが大切にしているのは知っている。慣れない生活での心の拠り所だ。榊原邸にある大事にしていたクマとも引き離されている。あまり我儘を言わずに諦めてくれたが、内心は悔やんで寂しがっていたのかもしれない。そして今度こそは大切に知ると決めているのだろうか。複雑な気分だった。
ただ一人彰だけはその意味を測りかねていて、Kに目配せをした。「ぬいぐるみです」と、小さく伝える。
「…ケイ君。今日は引き取ってもらってもいいかね?大切なぬいぐるみと君なしでは泣きっぱなしになってしまうだろう。それに、弟の隠し子をどうやってこの家に入れるか、それも考えなくてはいけない」
ひとつ息を吐くと、苦笑混じりで彰は頼んだ。
とっさに出かかった抗議の言葉は喉もとで詰まった。無理にでも置いていこうかと考えていたのに、そう言われては無理に頼むこともできない。
それに肩を震わせながら自分にしがみついているアイラを引きはがすのはどうしても無理だった。必死にKに縋りついている姿はあまりにも小さく頼りなかった。
その様子を見て唇を噛み眉を寄せながらもKはしぶしぶと言った感じで了承し、アイラの手を引いた。
驚くぐらい素直にその手に引かれて、歩き出してくれた。そうは言ってもやはり握る手はきつ過ぎる位で、歩きにくいほどKに寄り添ってはいたが。
「来れたら、また来てくれ」
「近いうちに」
別れの挨拶にしては微妙な言葉だったが、アイラに気を取られていたKは引っかかりを感じることなく聞き流してしまった。
Kとまだぐずり気味のアイラは、彰の呼んだタクシーに乗り込んだ。自動でドアが閉められると車体が揺れ、間もなく車は発進した。
アイラはぴったり寄り添いながらKのお腹のあたりに顔を埋めて彰の見送りさえも見ようとはしない。ただしゅんとした顔をしている。
それとは対照的に彰は笑顔で手を振っていた。
Kは一瞬だけその姿を目の端に映すと、目的地だけを簡潔に運転手に伝えてぼうっと過ぎゆく景色を見つめていた。
バックミラーに写る危険な笑みに気づくことなく…。




