後悔の重み
部屋の中をはしゃぎ回るアイラに目をやると、Kは立ち上がり玄関を開けた。するとそれに気づいたアイラも急に玄関に走った。
「どこか行くの!?」
「外に」
「私も行きたい!」
「駄目だ」
これから行くところにアイラを連れていくわけにはいかない。固定電話の代わりに置いてある携帯が組織からの呼び出しを告げていた。本部にアイラを連れていく事は無理だし、組織の周りは物騒で少女一人を置いておける環境でもない。
何より裏社会の、しかも自分を知っている人間にアイラと一緒にいるところを見られては双方の為にはならない。
「お外に出ちゃダメなの?」
寂しげな表情を見せる。昨日の奇麗な夜景を作り出した世界を訪れてみたいと思うのは、好奇心旺盛な子供には当たり前の欲求だろう。
「あぁ」
顔を曇らせたアイラを見て悪い事をしたと感じたが、許可を出す訳にはいかない。
とりあえず生かしておくことに決めた少女をみすみす危険にさらすような真似をするほど馬鹿ではないし、優しくはない。
「…独りにするの?」
アイラがぽつりと漏らしたそのひと言に、Kは胸に刺さる痛みを覚えた。ドクンと心臓が震え、逃げたい気持にも駆られた。
けれど手をきつく握りしめ、なんとかその場に留まってアイラを見つめる。
「独りは寂しいよ…」
アイラはなおも足元に向かって呟く。か細く泣きそうに震える声はKの耳朶を打ち、頭の中で反芻された。
たった独り、物寂しい部屋に軟禁状態にされ、これまでの9年間のほとんどを過してきた。絵本もアニメもぬいぐるみもクレヨンもあったし、新しい玩具も与えられた。
けれどどんなにたくさんの玩具に囲まれていても、いつも独り。呼びかけて返ってくる声はめったにない。たまに思い出したように顔を出してくれる両親は優しくて大好きだけれど、一緒にいてくれない間はすごく寂しかった。
いつも忙しそうで、でもわがままを言うと両親が困っているのがあからさまに分ってしまって何も言えなくなってしまった。
そばにいて、さびしい。そう口にできなくなってしまってからもうずいぶん経った気がする。
アイラは顔をあげると、そこには底深い瞳を動揺に揺らしつつも微動だにしないKがいた。何かに追い詰められているような、そんな緊張感すら感じられる。
この少女の両親は昨夜殺した。肉親であり心の拠り所でもあった2人を殺してしまった。忘れていたわけではないが、改めてその事実を突きつけられると言葉が出なかった。
アイラはKが両親を殺し、もう存在しないという事実を知らない。だからこそ、アイラの言葉は堪えた。
突然アイラの存在が怖くなって、それから解放されるためならいっそ殺してしまってもいいかもしれないという考えも頭を過ぎったが、軽く頭を振って冷静さを取り戻そうとする。
涙目になってKを引き留めようとするアイラの瞳が無意識に自分を責めている。
「……ごめん…」
初めて、謝罪の言葉を口にした。
小さすぎてアイラには届かなかったかもしれないが、確かに発せられた。
アイラに対しすごく申し訳ない気持ちになり、急に胸が重くなっていく感覚かする。本当に逃げ出してしまいたかったが、身体は苛立つほど重く言う事を聞かなかった。
あの殺しが間違いだとは思わない。けれど、殺さなければよかったと後悔している。
間違ったことをしていないのなら、何故こんなに胸の詰まる想いをしなければならないのだろうか。今までこんな気持ちになったことなんてないのに。
アイラくらいの…否、それよりもっと幼い子を両親の前で殺したことがあった。
必死で命乞いをする両親には目もくれず、一突きでぬくもりを失くした幼子は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
絶望に目を見開いて言葉を失う父親と、ヒステリックな悲鳴を上げたあとに気を失った母親を見ても、Kが冷え切った表情を崩すことはなかった。
黒装束に眉ひとつ歪めず無慈悲に手を下し颯爽と立ち去るその姿は、さながら死神。
別になんてことはなかった。
教えられたままに、命じられるままに、行動しているのだから。それが絶対の道として考えてきた。
アイラにおいても例外ではなく、命じられればきっと――。
凍てついた眼でアイラを見下ろすと、アイラは笑顔で見上げているところだった。
「ケイ、やっぱりちゃんとお留守番する!いい子にしてる!」
急に慌てたように言うアイラ。ぴょんっと飛び跳ねて手をKの顔に触れるように上に伸ばしたが、身長の差で首元までしか届かなかった。
今辛そうな顔をしているのはアイラではない。
きつく眉を寄せ苦しげに顔を歪めるKにアイラは気遣わしげにKの手を握る。それに一瞬震え手を引こうとしたが、小さく柔らかい手に力を抜いた。
「ケイ、泣かないで…ごめんなさい。ケイ…」
「泣く?…俺が??」
愕然として目元に掴まれていない方の手を当てるが、涙は零れてはいないし湿り気もない。でも目頭が熱くなり、息が詰まりそうだった。鼓動もやけに大きくて胸を圧迫している。
普通な状態でないが病気でもない。こんな時の対処法など教えられていなかった。
本気で心配そうに見上げてくるアイラの頭に手を置いき撫でた。やわらかな感触の毛が指に絡まる。
口元が緩みかかった瞬間――不意に自分の手が赤く染まっている錯覚に襲われ、手を離した。
でもそれは錯覚なんかじゃない。
事実、この手は赤く血に塗れている。幾人もの血に塗れ、シャワーなんかじゃ流しきれないものが纏わりついている。
断末魔の悲鳴も血の気が失せ歪んだまま硬直した顔も、精神的攻めにはならないが鮮明に思い出す事が出来る。そして殺人に狂ったわけではないが、仕事を為した時に感じる高揚感も。
「?」
急な行動にアイラは驚き目をしばたいている。
Kは自分の手を見つめ、ぎゅっと握った。アイラに掴まれていた手もさりげなく振りほどく。
幻覚だろうが何だろうが、Kが自分の過去を思い出し気を引き締めるには十分な一瞬だった。
「絶対に部屋から出るな」
冷たく言い放った。瞳も暗く蔭る。そこには死神と称される紛れもない暗殺者がいた。
「ケイっ…!?」
急変したKに戸惑うアイラを無表情に一瞥し、心配そうな声を背中に受けながらKは玄関に鍵を閉めて出て行った。
15階の部屋から気分を紛らわすために非常階段で1階まで駆け降りる。勢いをつけて降りていると言うのに、不気味なくらい足音はしなかった。風のように走ると評されれば聞こえはいいが、実際はカマイタチのように鋭利的で、人を殺すために身につけたものだ。
爽やかな風が髪を靡かせるのと同じように、Kはナイフを閃かせてきた。
Kは本日2度目の自虐的な笑みを浮かべた。
今まで何人をもこの手にかけ、屠ってきた。復讐を大義名分に、必死に居場所を掴んだのだろうか、直接殺しに来た者もいた。彼らはは邪魔者として迷うことなく排除した。力無い者はただ泣きながら恨み事を吐き、自分の弱さとKの残酷さを呪う言葉を声が枯れるまで叫び続けた。それは相手にする価値もなく、無視して捨て置いた。
その時の呪詛や人々の恨みが今頃効いてきたのかもしらない。それともただ単に調子が悪いだけなのだろうか?
どちらにしろ、この手は血で汚れていて、その穢れが今を作り上げている事実は変わらない。
それを再確認しているだけだ。
*・*・*・*
『K、お前にやってほしいことがあるんだが』
スピーカーから聞こえてくる声はいつも同じで、この前電話に出た人物と同じ人物だ。
窓の無い小部屋には小さなスピーカーと今は何も映していないスクリーンしかなく殺伐とした雰囲気がある。
「内容は?」
自分ができる事は“殺し”しかない。命じられることも“殺し”だけ。変わるのはターゲットと稀に方法に注文がつくくらいだ。
それは相手も承知しているはずなのに、わざと言葉を切ってKの反応に何を期待しているのか間を作る。返す反応もいつも同じだと知っているのに、暇なやつだと思う。
今日はアイラを1人家に残してきたことが妙に頭にチラついて、無駄な対応に少しいらっとした。
不機嫌そうに眉を寄せると、スピーカーからはやっと返事が来た。
『なぁに、面倒な仕事じゃない。2人ほど消して欲しい人間がいるだけだ』
くくっと喉で笑う声を聞きながら、Kは黙って次の言葉を待つ。
『組織に歯向う奴でねぇ。佐々木と三田だ。分るか?』
聞き覚えのある名で、自分も何度か姿を目にしたことがあり顔はすぐに思い浮かんだ。あまり好印象を持ってはいない。
「…幹部だろ」
『あぁ、幹部だ』
声はあっさりと肯定した。
『しかし反逆者でもある。いや、お前はそんな事は気にせずに事を成せばいい。2人は一緒にいる。所在は…』
暗殺を成し遂げるのに不必要な情報は相手に教えないし、Kも聞かない。理由も背景も人々の思惑も関係ない。命じられれば、それが殺す理由になるのだから。
淡々と告げるこの声は、時に非情な命令でさえ平然とKに伝えてきた。まるで自分は全く関係ない、または興味がないとでも言うかのように命じる。
Kには拒否することも、失敗することも許されない。ただターゲットを殺すだけ。
ただそれだけが生きる道で、生きることを許された道。
突如スクリーンに地図が現れた。薄暗い部屋に急に光源が現れ、一瞬目を顰める。
そこに映し出されているのが身近な土地であることはすぐに分ったが、そこが先刻後にしたばかりの自分の住まうマンションだと気づいた時は整った眉を寄せ眉間にしわを作った。
7階に2人は居を構えているらしく、15階に住むKと会うことはなかったしKも知らなかった。だからといって気付かなかったのは抜けていたとしか言いようがない。身辺情報管理の甘さだ。
『質問は?』
「1つ」
『…何だ?』
普段質問をすることが無いKに、形式上で問うただけの声には驚きと好奇心が混じっている。
「俺の前回の榊原家…それの、親類縁者を探してほしい」
『もう終わったことじゃないか。まさか、今更失敗して取り逃がしたなんて言うつもりか?血迷って殺しに行くつもりなら教えることはできないな』
街のでふと目に付いた電気店のテレビでは昨夜の事件が流れていた。何者かに胸を一突きにされ殺害された榊原夫婦。警察は全力をあげて犯人捜索に当たると同時に榊原氏の人間関係についても洗っていくと報じられていた。
「仕事以外の殺しをするつもりはない。夫妻は確かに殺したし、確認済みだ」
それは昨日も言っただろ、と心の中で付け加える。
『なら、個人的なことだと言うのか?お前が』
窺うような厳しい声に、Kは無言でスピーカーに視線をやった。どこかに仕掛けられている小型カメラから、真意を見透かそうとする鋭い視線を感じる。
やがて間があってから声が響いた。
『…図星だな。基本的に、個人的なことに組織の力は使えないのはお前も知ってるだろ?……だけど、お前は今までかなり組織の役に立っている。それに、お前がお願いをするなんて珍しいじゃないか』
厳しさが抜け途端に面白がっているようなものに変わった。Kが不快感を露わにして顔をしかめても、忍び笑いはスピーカーから漏れ、部屋全体に響いている。
『いいだろう。今回お前が殺り終えるまでには調べといてやる。成功の報告を受け次第、教えてやるよ。それでいいだろ』
「あぁ」
浅く頷いて、Kはもう用は無いと言わんばかりにその部屋を後にした。




