流れゆく痕
連れてきたのはとある高層マンションの一室。
大きな窓から差し込むネオンの光で暗い部屋はぼんやりと明るい。薄闇の中には殺風景な室内が浮かび上がっている。
部屋の電気を点けると、アイラは窓に飛びついていった。遠慮のなさに少しの苛立ちを覚えたが、特に咎める事もせずにKも室内へと入った。
こんなはずじゃなかったと後悔しながらも、血の付いた姿と幼い少女連れでは泊まれるホテルがあるはずもなく、観念して自宅に連れて帰った。やけくそな気持ちがあるのも確かだ。
「きれー!きれー!!」
アイラは明るい声を出すと興奮してかぴょんぴょん跳ねている。
大きな窓の外には都会のネオンが広がっていて、さまざまな電飾が夜の街をかざり、昼間とはまた別の明るさがある。
こんな時間に営業をし、街を賑わせる店はどんなものか知れているが、夜の闇はそれを隠し、輝きだけを美しく演出している。
ずっと人目に触れる事を許されずに過ごしてきた少女に、夜景は珍しいものらしく、下に広がる景色に負けず劣らずの輝きを顔に浮かべている。
釣られて見下ろす自分も、この夜景をゆっくり見たのは初めてかもしれない。だがすぐに紅いテールランプが飛び散る血飛沫と被り、眉を顰めると視線を逸らせた。
一瞬で気分を害されてしまった。
「もう寝ろ」
八つ当たりするようにアイラに言う。彼女はぱっと振り向いて懇願するようにKを見上げる。
「まだ眠くないもん」
拗ねたように見つめるアイラに、これだから子供は厄介だとあからさまに溜め息を吐いた。
両親以外の人間と交流し、この奇麗な夜景に心奪われたアイラの神経が高ぶっているのは分るが、時刻は子供が起きていられるような時間ではなく、体が睡眠を求めているのは安易に想像がついた。足はおぼつかなくなり始めているし、目だって半開きになり、さらにはさっきから欠伸ばかりしている。
「寝ろ。目を瞑れば嫌でも眠くなる」
「でも…」
名残惜しそうにアイラは視線を夜景に移した。一瞬一瞬で輝きを変える夜景はアイラの興味を捉えて離さないようだ。
「…明日も見れる」
呆れ気味にKがそう伝えると、アイラは後ろ髪を引かれる思いでたった一つのベットに潜った。冷えたベットに小さく身震いし、布団に絡まる。
電気を消してやると、部屋は外界からの明るさがぼんやりと入るだけの薄暗さに再び包まれた。
家具はベットとテーブルとソファーが1つしか置いておらず、生活臭のする部屋ではない。棚やテレビを置いたこともあったが、結局は邪魔になって捨ててしまった。欲しい時にはまた買えばいいだろうと安易に思った。
ソファーに身を沈め、もぞもぞと動く気配を感じながらもう一度外に目を向ける。忙しく走る車の喧騒も、必死で呼び込みをしているホストやキャバ嬢、酔っ払いの声もこの部屋には聞こえてはこない。
その美しい片鱗だけがこの部屋への侵入を許されている。
数分もしないうちにアイラの規則的な寝息が聞こえてきた。いつもは静寂しか訪れないこの部屋には初めてのことだ。
それが耳障りなのか、居た堪れなくなって立ち上がると未だ自分の手が血で薄汚れていることに気づき、シャワールームへ向う。
勢いよく噴き出す熱いお湯が体を火照らせていき、薄赤く染まった水は足を伝って排水溝へと流れていく。
人を殺めた証拠でさえも簡単に消え去り、流れてしまう…。
あっけないものだと、Kは自虐的に笑いながら思った。
だがどうせならこの体についた傷痕も消えてくれればいいのに。鏡を見ながら無数に残るそれにお湯を当ててみた。
男だし、誰かに傷を見られて困る事もないのだが、ヘマをした証拠が残っているようでなんとなく嫌だった。まぁ、気を抜かないための戒めともいえばそうなるのだが。
何人かの女は勿体ないと嘆いていた。せっかくきれいな身体をしているのに、と。
事実、鍛えられて引き締まったKのボディーバランスは完璧で、モデルだって舌を巻くようなものだ。
長い手足に無駄のない筋肉は敏捷性を損なわず、けれど人を殺せるほどの力を備えた肢体。それに若々しさと生命力を感じて女を惹きつける。
それに加え、生まれ持った高い身体能力と、何より躊躇うことなく人を殺す決断を下せるその思考がKをこれまで生きながらえさせてきたと言っても過言ではない。
その体を滑るように流れていく水にはもう汚れは無かった。
シャワーを止めて粗方の水分をバスタオルで拭き取ると、ふと邸でアイラの手を掴んでいたことを思い出した。手を洗った様子はなかったからきっとまだ手首にはKの手の跡が付いているだろう。
あの細く白い手首にそれが残っているのは何となく不快で、Kは手ぬぐいを濡らしてベットへ歩み寄った。
アイラは小さく寝息を立てながら穏やかな顔つきをしている。Kが静か過ぎるくらいに近づいたせいか深い眠りに就いているせいか知らないが、彼が布団をめくっても全く反応を見せなかった。
「…んむー…」
手首にはやはり血痕が残っていて、湿ったタオルを押し当てると彼女は少し身じろいだ。
水ではなくお湯で湿らせるべきだったか…。
今更どうでもいいことを考えながら、Kはアイラが起きないことを確認して両手首を拭いてやった。
この血が両親のものだなんて、きっと考えもしていない安心しきった寝顔は何の夢を見ているのか時折微笑むように顔が動く。
それを無表情に一瞥してから、優しく布団をかけなおした。自分らしくない行動に首を傾げながらも、Kはソファーに深く身を沈めて目を閉じた。
*・*・*・*
アイラが目を覚ますと、陽の光がまぶしいくらいに差し込んでいた。
小鳥のさえずりも自分を起こす声も聞こえなかった事を不思議に思いながら目を擦ると、見慣れぬ男が自分を見ていた。
「ケイ…?」
ぼんやりしながらぽつりと口をついた。
「起きたか。飯は食べるか?」
昨日は薄闇の中でしかKの姿を見ることができなかった。この部屋に来てからは夜景に夢中だったのと眠かったのとであまり記憶に残っていない。
窓から差し込む光に照らされたKの姿には違和感を感じる。
低めの声に、落ち着いた言動からもっと年上の、両親くらいの男だとアイラは予想していた。しかし実際はもっと若い。本当に「お兄さま」と呼んでも変ではない容姿をしている。
アイラはじっとKを見つめていると、Kはそれに気づいて眉を顰める。凝視されるのは苦手だ。
「何だ?腹は減っていないのか?」
引き結ばれた薄い唇がゆっくり開くと、困ったような声が漏れた。
確かにKは自分を見てくれているのに、その瞳は何も映していないかの様な無機質なもの。光さえも吸収し、闇に取り込まれてしまった瞳。
黒を纏うKは、この陽の光で溢れた室内ではすごく異質なものに見えた。黒髪は少し長めで、俯くと目もとが隠れてさらに影を落とす。
それは闇と光が相反するように――。
「…アイラ?」
街を歩けば間違いなく女性が振り向く顔をしかめ、虚空の瞳に気遣わしげな光がちらと覗く。
だが、まだ幼いアイラにその違和感を口にする言葉はまだ持っていなかった。言いたい言葉が出ずに、すごくもどかしい。困ったような顔だけを見せるアイラにKはなす術が無い。
「飯を食べるか、食べないかを聞いているんだが…?」
質問の意味が分らなかったのかと思い、もう一度聞いた。語気に苛立ちが含まれたのに気づくと、アイラは慌てて「食べる」と返事をした。
しかし、出されたのは朝食には相応しいとは到底思えないモノ。
「ケイ、これなーに?」
「…朝食だ。嫌いか?」
アイラは初めて見るそれを凝視した。食事の温かさどころか、食欲を誘う香りも漂わせてはいない。目の前には手のひらサイズの四角い袋があり、小さめの白いキャップがついている。
「食べたことない…」
とりあえず持ち上げてみるが、どうも食べ方がわからない。Kは無言でそれを奪い取ると、キャップを開けてアイラにそれを返した。
アイラはしばらく眺めてみたあと恐る恐る口に含み、中の物を吸ってみる。
「・・・」
ドロッとしたゼリー状のものが流れ込んできた。まずくはないが、食事とは到底思えなかった。すこし甘ったるい。
「ご飯がいい…」
「米がない」
あっさりと返した。炊飯器はおろか冷蔵庫すらこの部屋にはない。ガスコンロと流し台だけが使用形跡もなく存在しているだけだ。
「ケイはいつもこれなの?」
「あぁ」
食べない日もある。
「ご飯がいい…」
再度そう言われて、Kはため息をついた。無いと言っているのに。
自分はこれでも十分だが少女にはそうではないらしく、普段は温かいご飯に栄養バランスを考えたおかずを食べていたことを思い出して仕方ないことかと諦める。
「明日は用意するから、今日はそれで我慢してくれ」
「はーい!」
再び口をつけ、しかめっ面をしながらゼリーを吸う少女に目を細めた。
そこでアイラが未だに寝巻きなのに気づき、Kは紙袋を手渡した。
「これなーに?」
「着替えだ」
アイラが起きる前に用意していた。ベットも適当なものを一つ買い、先ほど届けてもらった。
その間もずっとアイラは眠り続けていた。人の気配に敏感なKには考えられないことだった。
「一人で着れるのか?」
「できるよ!もう9歳だもん」
胸を張って威張る少女にKは無意識に笑いがこぼれた。自分が笑われたことに気づいていないアイラも、Kにつられて笑った。
「…9歳なのか?」
「うん」
6歳くらいに見えるのは、アイラが幼顔だからなのか、自分の基準が狂っているだけなのか…。だが確かに6歳にすればしっかりし過ぎているかもしれない。
「ケイは何歳なの?」
「…17くらい」
たぶんその位だと思う。組織に入って14年だと誰かが言っていたような気がする。誕生日を記憶していないので、その辺の感覚が麻痺している。
けれど自分がアイラの歳にはすでに人の命を奪っていたことは分る。今回のように暗殺をしに行くわけではなく、後始末といって止めを刺すだけの仕事だっり、子どもという立場を利用して相手を油断させておいてそこを別の仲間が殺す。
殺しに関わることなのは今も昔も変わりない。
小さいくせに躊躇いがないと褒められたが、それは幼さゆえに何も分かっていなかったから。突き刺した刃が消す何かを。今でも分っているとは言い難いが。
アイラは与えられた服に嬉々としながら着替えている。ぎこちない手つきに手を貸したくなるが、一人でできると言ったアイラを尊重して見守るに止める。たどたどしい様子を見ているのはどうも不安になる。
「ケイ!可愛い?可愛い?」
ぴょんぴょんと跳ねたかと思うと、クルリと回ってみせた。適当に選んだ服だが、サイズは間違ってはいないらしい。薄ピンクのワンピースの裾が少し舞い上がる。優雅さは無いが、幼さと笑顔が可愛らしさを演出している。
「似合う?」
「あぁ」
こう言う何と言っていいか分からずにただ頷いた。しかしそれだけではアイラには不服らしくプゥと頬を膨らませた。
「ちゃんと言って!」
「……可愛い…」
少女を褒めるその言葉を言うのにはすごく気恥しいものがあった。あまり感じることのない感情にKは戸惑いながらも何とか口にしたのだ。
アイラは満足げに微笑んでまたくるっと回った。




