最期の時に君は
顔に冷たいものが落ちてきて、Kは力を振り絞り鉛のように重い瞼をこじ開ける。
少しの間夢を見ていた心地だ。
何度も思い出すことのある光景なのに、今はとても気分が悪い。
顔に落ちたのは当たり前に赤い液体かと思い、篠田たちは帰ったはずなのにアイラに何かあったのかと動揺しながら目を開く。
けれど、ぽたぽたと顔に降るソレは血生臭いものなんかじゃなくて…。
「ケイぃ…」
にじむ視界いっぱいにアイラの顔があった。いつも愛らしく笑っていた顔をくしゃくしゃにして涙に濡らしている。
血まみれで倒れたKに縋りついて震える声で名前を呼ぶ。
何ともない様子に安堵すると同時にまた目が閉じそうになったを必死に堪える。このまま目を瞑ってしまえば、そのまま目を開ける事は不可能になりそうだ。
彼女とは出会ってまだ数日だというのに、なぜかずっと前から一緒にいたような気がする。何も知らない、無垢としか言いようがない少女。
自分には似つかわしくないものばかりを持っていて、苛立ちすら覚えたはずなのに今はもう安らぎすら運んでくる。
こういう穏やかさを感じるのも悪くないかもしれない。
アイラの腕に抱かれているシロクマは、今や純白を失い、赤く染まっている。大事なぬいぐるみが汚れるのも構わずに、アイラはKに寄り添った。
Kの黒い服に血は目立たないが、ぐっしょりと濡れていてアイラもそれで汚れる。赤い血に動揺しながらもアイラは助けを求めるようにKの名前を呟く。
記号として与えられた“K”という名も嫌いではなかったが、彼女が“ケイ”と呼んでくれる時に感じる心のざわめきは心地よい。
その間も涙は止まらずにKに落ちてその輪郭を滑り落ちる。溢れる血よりは冷たくて、でも心に深く染み込む。
手に入れる以前に、持っていたことすらない“涙”
“笑顔”
ただ見ていたかった。
ただそばに置きたかった。
ただ手に入れたかった。
ただ
守りたかった…。
それを過去に奪った命は許してくれなかった。
歩いてきた過去は自分が思うより血に塗れていて、冷たく暗いものだ。背負う十字架の重さに気づいてしまえばもう立ち上がることすらできなくなってしまう。
どうすればいいのか分らない。
償えばいいのか、それとも目を瞑ってこれまでと同じように生きればいいのか…。いや、同じように生きる事はもうできない。
非道な命令をする声さえももう聞こえてはこない。
ただ1つはっきりと分るのは自分の命の残量。
「笑え」と懇願する言葉も出せない。
アイラの顔だって、もうはっきりとは見えない。
すすり泣く声だけが耳朶を打ち、涙と小さな手の感触だけが触感のすべてを支配している。
彼女から貰ったものを何も返すことができなかった。すべてを奪い、危険に巻き込んだ代償を払うことができない。
教えてやれるのは、きっと…
俺の死を通して、人の“死”をアイラは知る。
両親の死を理解し、また泣くだろう。絶望に暮れてしまうかも知れない。
俺の罪を知り、軽蔑し憎悪するだろうか?
異質だが平穏な幸せを壊すだけ壊して去っていく俺を憎むに違いない。
それでもまた
俺のために涙を流してくれるだろうか……。
笑顔を見たいはずなのに、泣いて欲しいとも願う。
我が儘な感情だ。アイラが、教えてくれた。
「ケイ、寝ないで…」
か細く不安げな声が耳に心地よい。
身体に触れる小さな手はKを軽く揺さぶる。その度に血が溢れ出るが、しかしその痛みさえもKは感じられなくなっていた。
けれどやはり最後に網膜に焼きつけるのは笑顔が良くて、だけどそれを伝えられないもどかしさがあった。
瞼を開けているのでやっとで、声なんか出せそうにない。
アイラは蒼白になったKの顔を見てさらに動揺を煽られ、混乱と不安は涙となって落ちるしかない。
無知すぎて、どう言葉をかければよいのか、Kに何をしてやればいいのか皆目見当もつかない。
Kは何か言いたげに口を動かすが、その度に漏れるのは苦しげな息と赤い血。必死で聞き取ろうとするが何も分らなかった。
「アイラちゃんといい子にするからっ…。お留守番もちゃんとするし、ご飯も食べるから…」
ちゃんと起き上がって、いつも通りに戻って、と泣きながらお願いする。
その様子をうっすらと目を開きながら確認し、内心苦笑を洩らす。
涙に濡れる顔を最後に死ぬのは心残りだが、仕方ない…。
それがささやかな、ほんの一部の報いだと思えば。
一般的でない罪深い人生だった。
善悪なしに殺めてきた人々の屍を機械的に積み重ねてその上に生きてきた。それで良しとしていた。
呪詛のような恨み事や、常人なら耳を塞ぎたくなる様な断末魔を浴びせられてきた。
そんな自分の為に無垢で明るい笑顔を向けてくれる人がいる。穢れなき涙を、流してくれる人がいる。
なんて身に余る幸福か。
けれどもしも許されるのなら…。
アイラにはこの先も笑顔でいてほしい。たとえ俺がいま見る事ができなくても。
祈るように願うことしかできない。
張りつめていた力がすっと抜けていき、痛みに耐える為に強張っていた筋肉が弛む。
死神のようだと比喩された冷たい無表情さはもうどこにもない。そこにあるのは端正で血に塗れ蒼白ながらも美しく、そして年相応の若さのある少年の姿。
最後に浮かべた笑みは自嘲のつもりだった。泣き顔のアイラを映して、笑顔はやはり分不相応の高望みだったと。
けれどアイラはそれを見て、釣られる様に笑みを浮かべた。どうして笑ったのか意味は分らなかった。
ただこんな状況でもKが笑顔を浮かべていて、それを見たら自然と笑みが浮かんだ。
それはまるで天使のような。
地獄からの使者すら撥ねつけるような、優しく無垢で純粋な微笑み。Kのために流された涙がきらきら光る。
けれど、Kがその笑顔を焼き付けることは永遠に無かった――。
xxxx
閑散としてもの寂しい部屋に、一人の少女が佇む。
数日前までは生活臭のまるでなかったが、シンクに置いてある食器はまだ洗浄されておらず汚れがこびり付いていて、子供服の入っていた袋だとかも無造作に床にある。
昼夜問わずカーテンのしまらない窓の下にはいつもと変わらずに機械的な動きばかりを繰り返す人とモノが溢れかえる。
そのどれにも興味が沸かなかった。隣に問いかけて、不器用そうに、けれど律儀に返事をしてくれる相手はいない。
胸に抱かれているのはクマのぬいぐるみ。
茶色というよりは赤っぽいような毛並みは決して綺麗ではない。ごわついた毛を、優しく撫でるとパラパラと赤黒い粉が落ちた。
両親も、このぬいぐるみを与えてくれた人も亡くしてしまった。
この胸を支配する想いが何なのかは分からない。
ただひどく苦しくて、涙すら枯渇させてしまうほどにすべてを搾り取っていく。それは生きる気力さえも奪いかねない。
忘れていきていくのは到底不可能なくらい強烈な感情。
渇いた血でカサつく手を洗おうともせず、アイラは来たるべき客を待ちドアを見つめる。
表情が抜け落ち、茫洋とした瞳で宙を見つめる。幻覚のようにそこにはKが現れ、そして記憶の中で両親との生活が再生される。
もうあれから何日経ったのかも分らない。
泣いて1日が終わった日も、ただ茫然として1日が終わった日もあった気がする。そのどの時間も拷問のように緩慢に流れていく。
お父さまもお母さまもどうして死んでしまったの?ケイは、なんで殺してしまったの?
忙しくてなかなか一緒にはいてくれない2人だったけれど、愛してくれて、とても大好きだったのに。
ケイが最期にされたみたいな事を、ケイはお父さまとお母さまにしたの?
分らない。
だから、知りたい。
―――ケイと同じ世界を。
FIN




