血の道への誘い
「……っ…な…」
2人取り残された薄暗い部屋で、Kは息も絶え絶えに呟いた。
ひゅーひゅーと掠れがちに吐き出される息にも血臭が混じっているようだ。
「ケイ?もう一回言って?聞こえなかったよ…」
篠田の言葉をKはアイラより理解していた。
「行くな」と、もう一度言おうとして血にむせて咳き込み言葉にならなかった。口元に赤い斑点ができる。Kを覗き込んでいたアイラの顔にも少なからずそれが付着した。
「お口を怪我したの?血が出てるよ…」
こんなに血が出ているのを見た事はないのだろう、躊躇いがちに口元にのばされる手をぼんやりと見た。
アイラはもう何にも縛られる必要は無いのだ。これまでの過去をすべて忘れて、新しい道を歩むべきだ。
篠田の手を取れば、これ以上に人道に反する辛いことが起こるのは必須。
痛みを伴う訓練と、アイラのように心優しき者なら精神的苦痛を味わう任務。
血を見る世界などアイラには似合わない。
「ケイ、お腹痛いの?大丈夫??」
アイラがそっとKの腹部に手をやる。生暖かい血液で濡れていて、びちゃっとした感触があった。アイラが触れると小さく痙攣して呻き声をあげてしまった。蒼白な顔に、脂汗が浮かぶ。
アイラはびくっとして手を引いてKの様子を窺って小さく謝る。
「ア…イラ…っ」
喋るたびに口に血の味が広がる。
腹部は痛みを通り越して熱さしか感じない。そこに、再びアイラの小さな手が添えられた。そこだけ優しい温かさを感じる。
流れ出る血を止めることはできないが、痛みはいくぶん和らいぐようだ。
「…、――…」
今まで何人もの死の瞬間を見届けてきた。それが今、自分に訪れようとしている。
少し離れた所に横たわる榊原彰のように、逃れられない終りがすぐそこまで迫っているのだ。
心配そうに覗き込むアイラの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。Kの頬に落ちたそれは血を溶かしながら顎と首を滑っていく。
体中の熱は幼き頃を彷彿させ、Kは重い瞼の裏にそれを見た。
激痛を訓練と称して与えられ眠れぬ夜。
死なない程度の治療は乱雑で、今も体には多くの傷が残っている。ひきつるように疼く傷に気付かぬふりをしながら新たな傷を体に残す。
血まみれでうずくまった時に、ただの一度も身を案じてもらった事など無かったのに……。
頭は思い出す必要のない、忘れたはずの記憶まで呼び起こしてきた。
―――過去。
冷たい雨の降る日だった。
ゴミ溜めに目を止めた人間がいた。
そこには同じ人間…と呼ぶには躊躇するが、ソレは確かに人の子と呼べるものがあった。
肌は土気色で、肋骨が浮き出る程に痩せこけていた。ぼさぼさの黒髪に艶は無く土埃や汚れを含んでいる。
ゴミの中の食料を探している途中で気を失ったのか、片手はゴミの中に突っ込んだままだ。
辺りを見回すが近くに親や仲間がいる様子はない。孤児だ。
逡巡した後に薄く笑うと、車を呼び寄せてその子供を連れ去った。ほんの気まぐれで、賭けのつもりだった。
当たろうが外れようが、身寄りのない孤児。どうとでも処分できる。
「気付いたか?」
うっすらと目を開けて、声のした方を向きながら体を起こすと腕に鈍い痛みが走った。確認すると腕には何本かのチューブが伸びている。しかも真っ白の清潔なシーツの上にいるようだ。
少年は茫然とチューブをひっぱると、そばにいた男はそれを手で制した。
「口はきけるのか??言葉は分かるか?」
男は問う。少年は声もなく小さく頷いた。
「名前は?」
少年は首を傾げる。
「いつも何て呼ばれていたんだ?」
「……よばれない」
数秒間をおいてからの返事には辛さなど含まれておらず、ただ事実のみを淡々と発しているだけだった。何の感情も読み取れない。
名前が無いのか…?
ゴミ溜めに倒れているような子供だ。そんな事もあり得るだろう。
これまでどこでどうやって生きてきたのかは分らないが、日の当たらない世界で生まれて、そして運の廻らないまま生活してきたのだろう。でなければ、発見次第孤児院に入れられているはずだ。
「親は?」
「…おや?」
「パパ、ママ、お父さん、お母さんを知っているか?」
ふるふると首を横に振る。
男は“使える”と確信した。口の端が持ち上がるのを止められない。
この少年が可哀想なまでに不幸である程、好都合だ。
誰にも知られず、最小限にしか関わらずに生きてきたのなら、使える…。この分なら戸籍すら登録されていないだろう。
(良い人材が手に入った)
男は貧相な少年を見下ろす。
小さく細い体は、直ぐにでも餓死してしまいそうなくらいである。しかし、死臭は感じない。
少年の瞳は悲しみも、苦しみも、絶望さえも映していない。
幼くしてすべてを諦めた、虚無―――。
(この年でそんな目をする奴が他にあるか…)
突然に見知らぬ人に連れられ去られても、少年は疑問に持つことも泣き叫ぶこともしなかった。
上手く育てれば、きっといい道具になるだろう。
男は久しぶりの昂揚感を感じ、引き上がる口元を止められなかった。1人喉の奥で笑う男を、少年はぼんやりと見つめていた。
圧し掛かる罪の意識に潰れれば、捨ててしまえばいい。そんな軽い考えで少年を手元に置くことに決めた。
少年は見た目と言葉の発達具合から、3歳くらいと予想された。名前は特につけなかった。それでも不便は無いから。
風呂に入れて汚れを落とすと、まあ見れる顔だちをしていることに気づく。柔らかい黒髪に、暗い影の落ちる瞳はどこか人を惹きつける不思議な力がある。放っておけない幼さと、けれど近寄りがたい雰囲気が少年を取り巻いている。
少年は極度の栄養失調で、骨が浮かび上がるほどに痩せていた。すぐに食事を与えたが急には胃が受け付けずに吐いてしまったため、点滴と流動食を与えて様子を見た。
痩せ過ぎていてすぐには肉がつかないが、それでも少年は見る見る間に元気になっていった。
それでも、口数は少ないし笑顔を振りまくようなことはなかった。暗い瞳で物事を傍観し、必要最低限の動きしかしようとはしない。与えられた食事にもがっつくことはせずに淡々と口に運んだ。
そして少年が回復したのを契機にこれまでの手厚い対応が一変した。
与えられる食事は見た目のままに美味しそうな匂いを放つが、口に含むと何とも言えない味が広がった。痺れるような痛いような感覚は全身に広がり呼吸すらままならなくなることも珍しくは無い。激しくせき込み、血を吐く日も多かった。
食事が安全でないと判断すると、少年は食事をとることを拒否した。しかし男はそれを強制し、少年は眉を寄せながらも言葉に従い、そしてまた苦しむ。
その様子は常に数人の白衣の者たちに監視され、記録されていた。毒への抗原抗体反応の過度を調べ、慣れによりその量を調整していく。
しかし、一年が経つ頃にはそんな食事にも慣れてしまった。常人には致死量になる毒に対しても免疫ができ、そう簡単には死なない体になった。
それでいて毒の有無は判断できるため毒見役として使われたころもあった。
初めて少年が手にした武器はナイフ。
果物ナイフのようなもので、人を殺すには役不足だ。それを渡すと男は「殺してこい」と言って自分と同じくらいの少年と闘わせる。
市販の安物のナイフは握りが手に馴染まず、気を抜いて振り回せば手から滑り落ちそうだ。
『――殺せ』
スピーカーからは機械的な命令。あの男の声。
もう一度手に握るナイフに視線を落とし、それから前方の敵になった少年に目を向ける。脅えた目には涙が浮かび、ガタガタと震えながらナイフの切っ先をこちらに向けている。
殺すのも、殺されるのも嫌というようだ。
何がそんなに恐ろしいのか?少年には理解できなかった。
――数十分後。
勝負は早くも決まっていた。どちらのものとも判別できない血痕が辺りに散っている。
荒く途切れがちの息がぜぇぜぇと聞こえる。
脇腹と腕が痛くて立っていられなかった。蹲るように体を丸めて脇腹を押えた。腕は刃が掠めただけだが、脇腹の方は比較的深く刺されてしまったようで指の間から血が染み出して止まる気配はない。
それでも、涙は出ずに息絶えた亡骸を見つめていた。
殺めた事に対する罪悪感はも何も無く、もしまたこの死体が立ち上がっても対処できるように気を抜けなかった。
そのうち、白衣に身を包んだ大人が少年の生死を確認し、遺体をどこかに運び去った。
カルテをもった白衣の女がゆっくり近づく。彼女が口を開く前にスピーカーから声が響いた。
『気分はどうだ?』
「…お腹と腕がすごく痛い…」
そう報告すると、スピーカーから笑い声が上がった。
腹を押さえる手は血に塗れ、ズキズキと痛みが押し寄せる。出血と痛みで意識が揺れる。
『私の目に狂いは無かったようだ!お前は使える!!』
「……?」
次第に意識が朦朧としだしたなか、少年はぼんやりとその言葉の意味を理解しようとした。
『お前は今日から正式に組織の暗殺者として生きてもらう』
急に口調が真剣なものに変わった。
その声が少年の運命を決定づける言葉を告げる。
『コードネーム“K”
お前の組織での名前だ』
Killer:殺人者
薄れゆく意識の中で、かろうじてと認識した。そしてすぐに意識は闇にのまれていった。
“K”と命名されたのは少年が推定5歳の時だった。
それからは本格的にいろいろな訓練を積んだ。
あの試験で動揺を見せたり、負けるようなら容赦なく捨てるつもりでいたらしく、これまではKにそれほど手をかけたりはしていなかったようだ。
痛みに耐えるために鞭で打たれ、万が一捕えられ拷問にかけられても情報を漏らさぬような訓練も受けた。寝込みを襲われ重傷を負った経験から、安心して眠れなくなった。
女を知り、騙すことも覚えた。
腕の中に抱きながら刃を突き立てたこともある。驚きと絶望に目を見開き、そして光を無くしていく瞬間を何度も見た。
決して心を許して逆に溺れるなと耳にタコができるくらいに警告されたが、それも取り越し苦労だ。
傷が疼く夜があっても、心が痛むことはなかった…。
何度も致命傷になるような大怪我を負い、体には傷が増えていく。血を吐き、苦しみのたうち回ったこともあった。
容赦なく襲う痛みに呻きと叫び声はあげても、助けを求めたことはない。
それがいかに無駄なことか、叶わないことかということは組織に引き取られるよりずっと前に身をもって覚えたことだ。
戻れない道を振り返る事は無意味と知り、命じられるままに“罪”と呼ばれるものに身を染めた。
命令に従い生きる事はとても楽だった。
人は考えるから悩み、余計な傷を増やす羽目になる。どうせ意思はあってないようなものだから、流れがあるならば流されてしまうほうがいい。
“罪”の重さも知らぬまま、少年は堕ちていく…。
この両手は人を殺す為にある。壊す為にある。
血に塗れた両手が見える。無残に事切れた体が無念そうに睨みあげている様子も簡単に浮かんでくる。
どこをどうすれば人間は死ぬか、死なぬ程度に痛めつけられるか、それも理解して身体が勝手に動く。
誰かを抱くとか、まして守るなんてことが許される腕は持ち合わせていない。必要がない。
そう、常々感じていた。
忘れたことなど、無かったのに…。




