鬼門一族
この話に登場する地名はすべて仮名です。なぜなら、この近隣の人であれば、場所がすぐ特定できてしまうことと、この忌まわしい話の内容が、この地の出身者やその子孫に悪影響をもたらす恐れがあるからです。
今は誰も触れられたくない過去ですが、それが確かな歴史の一幕として後世に伝えるべきだと考え、筆を取りました。
一 現代伝説
インターネットに、こんなブログがあった。
【その山奥の街道は、大きな山を避けるように十キロ以上も大きく迂回している。
でも少し無理して峠を越えれば二キロ未満の近道で行ける。
「バスが廃止とは困った。なんとか峠を越えて近道をしよう。」
その日、私は友人と連れ立って、峠越えの登山口を探していた。
地図には峠越えの細い道が描かれているので、それを頼りにその登山口を見つけた。
するとその道に入って間もなく、木製の柵が行く手を阻んでいる。
それを乗り越えて少し進むと道は雑草が伸び放題。しばらく人が通っていないようだ。
小一時間ほど上った先に、それは忽然と現れた。
そこは単なる限界集落の跡と違って、二十軒余りの民家の他に、村役場や学校、郵便局、店舗らしき建物もある。
周囲の森からかすかに聞こえる風の音だけ、人の気配はない。
地図を見ても、このあたりは空白で地名すら書かれていない。過疎が進んで消えたというより、ある日突然、人々がが忽然と消えて、そのまま風化した村・・・・
この集落に、何があったのか?
我々は日が暮れる前に峠越えする必要があったので、この謎の村を後に峠を越えた。】
この話は、ブログ管理者の叔父が昭和四十五年頃に体験したものだが、十数年後にその叔父があの峠の村を探そうと再び行ったが、登山口は見つからなかったという。
ブログ管理者は、叔父からこの話を聞いて興味を持ち、この地域からほど近い広屋町の図書館で調べたり、住民の話から、二つの情報を得た。
【➀この登山口から二十㎞ほど北の門前町、梅山町の住民の話で、昭和十年代、その峠越えの付近にあった「小里」(こざと)という集落に疫病が発生し、住人のほとんどが死んだ。
②登山口から逆に南に八キロほど進んだところにある城下町、広屋町で聞いた話で、その小里で争いごとが起きて、その矢先に疫病騒ぎになって、僅かに生き残った村人も離散したらしい。
ただ、広屋町でも梅山町でも共通して言われているのは、この事件が忌まわしいので、今でもあの村の近くの人たちはこの話を忌み嫌って話したがらない。】
ブログでは、この話はそこまでで終わっている。
この話は、巧妙な作り話なのか?それとも実際の出来事に基づく現代の地方伝説なのか?
だが、さらに調べると、この村にまつわる情報を書いたブログがもう一つあった。
【昭和四十五年頃にある人が迷い込んだ謎の廃村】
という書き出しは、まさに、先のブログの記述と一致する。おそらくそのブログに興味を示した人が作ったものだろう。
その管理者は、例の廃村の場所を根気よく調べている。
【そこはN県にある広屋町と梅山町の間の戸山街道の大きな迂回を外れて山を越える拝峠があり、明治時代の古地図には、その峠を越える細い道筋が描かれており、その途中に「小里」という地名と、家の形の図形が小さく数個描かれていた】
ブログ管理者が広屋町で見つけた資料に、昭和四十五年以降と思われる写真がある。
【人も入らぬ山奥に忽然と長屋風の住宅や学校、アパートのような建物まで林立している。】
ここがあの伝説の廃村だとすれば、昔、疫病を契機に村人が離散した事件が本当にあったのだろうか?
でも、疫病以外の、村の「争いごと」とは何だろう?そして住人はなぜ、村に戻らなかったのだろう?
二 不吉を示す古文書
今、この地域について調べると、現在の小里周辺は建物がなく、広屋町にも梅山町にも、昔の小里に集落があった痕跡さえ見当たらない。
最初のブログにあった「地元の図書館」は広屋町立図書館のようで、郷土史の本が数冊あった。そのうち、広屋町にあるN神社の縁起の記述が目を引く。それによると、この神社は、江戸時代初期に、あの拝峠にあった。
広屋に城を構えた十六世紀の武将が建立したこの神社は直毘神という厄払いの神が祀られてており、城の北側の峠に建てているので、鬼門の方位から来る厄災から城を守る目的があったのだろう。
だが、ここの神主はなぜか次々と若くして病死し、「この場所は穢れている」として、神社を現在の広屋町に移した。
実際この峠の周辺では、江戸時代から、たびたび疫病が蔓延したという記述がある。
先のブログで「小里の集落に伝染病が蔓延しほとんどの住人が死に絶えた」という不吉な記述と重なる。
ただ小里集落に関しては、江戸中期から明治・大正まで記録がなく、次に文献に見いだせるのは、昭和十四年六月の疫病騒ぎである。
それは、広屋町史の「広屋町役場小里支所」の記録。
この年の春に赤痢と見られる疫病が発生し、小里にある一つの世帯から急速に拡大し、僅か八日で村の全域に蔓延した。そして住人百七十三人のうち四十二人が死亡、一家全滅という世帯も少なくなかった。
住民の約半数が入院し、残った者も広屋の町はずれに急ごしらえで作られた避難小屋に移住させられた。
病魔が収まったのは、翌七月も半ばの頃だったという。
ところが、ここで不可解な記述がある。
感染の恐れがなくなり、犠牲者の葬儀も終えたのに、村人は誰ひとり、避難小屋から小里に戻らなかった。誰もがそそくさと荷物をまとめて、親戚や親族を頼って転居し、犠牲者の初盆である八月には、小里は廃村になっていたのだ。
【十六世帶百三十人たぐひなき病魔に恐れおののき、申し合はせたかの如く一斉に村を捨て、逃げ去りて廃村に至れり】
この村に希望が見いだせなくなったとしても、江戸時代からたびたび疫病を経験しているのに、この時期に先祖代々守ってきた家を捨てて出ていったのはなぜだろうか?
さらに不可解なのは、なぜか一軒だけ、この地に残った世帯があった。
村の北はずれ【拝峠の麓に住みたる「井野口豐吉」なる加持禱禱を生業とする者一人残れり。】
この井野口豊吉という男はどんな男で、なぜ村に残り、その後どうなったのだろうか?
この約三十年後に、ここは不可解な廃村としてある若者に発見されることになるのだから、最後の住人、井野口もその時姿はなく、この村に戻る者は誰ひとりいなかったのだ。
三 拝み屋の祟り
著者はそのその詳細を知るべく、広屋図書館に何度か通っては資料を漁っているうちに、受付をしている女性から貴重な情報を得た。受付の藤井という女性に名前も顔も覚えられ、気軽に話ができるようになったのだ。
彼女は地元で生まれ育ち、間もなく還暦で定年となる地元情報通だ。
ある日、藤井は
「大変な情報を見つけたので、休日に一緒に行ってほしい所がある」
と、色めきだって誘ってくれた。
その情報とは、小里の疫病事件の時、村で治療に当たった医師の日記だった。
藤井の元・同級生で現在、彦悦病院の看護師長を務めている田村という女性は、その手記を残した医師の娘たった。
田村は父からその手記の内容について、昔から何度も話を聞いており、手記の存在も知っていたが、父が亡くなって十五年たった今も、この日記は日の目を見ることなく田村家に埋もれていた。
なぜ表に出さなかったのかは、その驚くべき内容を読めばわかるだろう。
以下はその手記の内容だ。
田村看護師長の父、田村宗助は、小里の疫病発生当時、二十三歳で医師に成りたてだった。先輩の山形医師とともに小里に来たとき、二十二世帯百七十三人の村のほとんどの世帯で患者が発生し、複数の者が既に心肺停止という凄惨な状態だった。田村は伝染病発生時のマニュアルに従って治療や衛生管理を進めた。
その中で田村は、患者や村人たちが口々に囁く、
【拝み様の祟り】
という言葉を耳にしていた。
その【拝み様】こそ、この後に一人、村に残る井野口豊吉だった。田村はその時、井野口の名を初めて聞いたが、先輩の山形は知っていた。
小里から広屋の自宅まで自転車で帰る途中、山形はこんな話をした。
「拝み屋というのは、あの村の拝峠に住む人で、代々、口寄せとか厄払いとか、加持祈祷をやって生活している人だよ。」
隔離された山村では、鎮守の寺も神社も遠く、人生相談できる知識人もいないので、村人は何か悪いことがあると、「拝み様」に祈祷してもらっていた。また死んだ身内の声を聞かせる口寄せなども行っており、まるで未開の部族の祈祷師のような存在だ。
拝み屋は、正規の神主でも僧侶でもない村の一員として必要とされたが、けして尊敬はされない。むしろ怪しい力を恐れて忌み嫌う人もいた。
「その【拝み様の祟り】って?」
田村の疑問に、山形は答える。
「困ったときの神頼みとは、拝み屋のことを言うのだろうな。あの村にとって拝み屋は、神仏関係の便利屋みたいなものさ。祈祷の能力は重宝がられるけど、そのわりに拝み屋なんて、軽蔑さえもされているんだよ」
昔は【拝み屋】と言えば、目や身体に障害を持つ人も少なくなかった。お祭りのテキ屋のように、村から村へと旅をしながら、客の要望に応じて、占い、口寄せ、病気や怪我の治療などをして祈祷料を取るという胡散臭い商売だった。
人権も生活保証もなく迷信が渦巻く昔の田舎で、他に食べていく手段のない事情の人々が苦悩の果てに辿りついた生業なのだろう。井野口の先祖は、そうした祈祷師として小里に流れ着いた一家なのだ。
四 向学少年・豊吉
疫病事件より四年ほど前の昭和十年、井野口豊吉の父親・矢作が重い病で彦悦病院に入院したとき、息子の豊吉は毎日のように見舞いに来ていた。
病床の矢作は、山形医師に対して、息子・豊吉の将来を案じて言った。
「先生、おらぁ豊吉を医者にしたい。」
豊吉は高等小学校の卒業を間近に控えていた十五歳だったが、成績もよく、医者に対するあこがれを抱いていた。
その時、山形医師は、豊吉少年から驚きの話を聞かされた。
【私らが住む小里は、たぶん燕か猪が病原菌を持って来る所だと思います。】
かつて広屋の城主は、鬼門である北の方角の拝峠に、厄払いの守り神を祀る神社を建てた。
しかし代々の神主が相次いで病死し、建立から百年足らずで神社が移転してしまった。
その後、いつしかここに、【拝み屋】が住むようになったという。井野口家は明治時代、豊吉の祖父の時代に、どこからか流れ着いてここに住み着いたが、それ以前から、ここには【拝み屋】が住むというのが、小里村のしきたりだったらしい。だが、神社がなくなったあとも、小里ではたびたび疫病が発生し、昔ここにあったN神社の神主と同様、歴代の拝み屋も短命な者が多かった。長続きした家系がないのだ。
豊吉の祖父は、そんな呪われた拝峠の【拝み屋】を、ここに流れ着いた時から請け負い、村の北側の鬼門で厄災を払う役割を担っていたのだ。
だが、その子孫の豊吉は聡明だった。学校で病原菌の存在を学ぶと、自分なりに小里の疫病について考えていた。
過去の疫病がほとんど五月か六月に起きていること、そして拝峠の井野口家があるところは絶壁になっていて、その麓に泉が湧いていること。井野口家の生活水はこの泉から採っている。絶壁の上には竹藪があるが、ここで採れるタケノコは真竹と言って五月から六月頃によく採れる。すると、それを狙う猪が崖の上に頻繁に来る。
この辺は土の一部が崩れて崖下の泉に落ちることがよくあるのだが、その季節は、崩れ落ちた土の中に猪の糞が多く混ざっている。また、この季節は燕も来る。井野口家の軒先や、崖の途中にも燕の巣がある。すると、その糞も崖下の泉に落ちるのだ。
この泉の水は地下水となって下の小里の集落に流れているらしい。集落には三か所の共同井戸があるが、いずれもこの泉が源泉と思われる。
動物の糞などが媒介する病原菌は、通常は地下に浸み込んで、ろ過される。だから井戸を利用する人たちは、普通は感染しない。しかし六月の梅雨や八月以降の台風の時期に集中豪雨が降ると、ろ過する間もなく病原菌が共同井戸まで届いてしまうのではないか?
だから、屋江坂に疫病が蔓延するのは五月から六月になる。
知識もなく貧しいこの時代に、薪も貴重だったので、飲み水をいちいち煮沸しない。とくに、井野口家は源泉から直接採水するため、いつでも感染しやすい。江戸時代以来、代々の宮司や拝み屋が頻繁に病死したのも、これで説明がつく。
これが十五歳の少年、井野口豊吉の推測である。
「五・六月頃に崖の上の猪や燕の糞を採って顕微鏡で調べれば、証明できるかもしれませんよ。顕微鏡なんて高くてうちらは買えないけど、病院にはあるでしょう。」
井野口少年はそう、熱く語って、山形医師を驚かせた。
この時、山形は、井野口少年が拝み屋の跡を継ぎたくないと考えていたこと、そして父親も同じ考えであることを知った。
しかし、山形医師が井野口少年の聡明さの驚かされた日から間もなくして、入院中の父が亡くなった。 井野口家には豊吉の他に母親と妹がいる。食べていくには井野口少年が学業の夢を諦めて「拝み様」を継ぐしかなかった。
五 拝み屋青年・豊吉
後輩の田村医師は、後の疫病騒ぎでその井野口家まで消毒作業に行って初めて、豊吉に会った。しかし、そこにいた豊吉は、山形から聞いた聡明で向学心に燃える少年ではなかった。
あれから数年たった豊吉は、村人が大勢亡くなっというのに、したり顔でたばこを吸いながら、自宅の消毒作業を眺める怪しげな「拝み屋」そのものだった。
居合わせた山形医師が、
「君の言うとおり、今度も六月だったね。この崖の上から猪か燕の糞を持ち帰って調べたら、君の推測が証明されるかもしれない。」
と言うと、井野口は力なく笑い顔を見せて言った。
「今さら意味がありませんよ。」
そして彼は広屋の避難小屋に移動することを拒否した。
拒否して幸いだった。なぜならば、避難小屋にいる村人は、豊吉をまるで病魔のように忌み嫌い、恐れていたからだ。そんな豊吉が、この狭い避難小屋に姿を現したら、大騒ぎになっただろう。
疫病は拝み屋・豊吉の祟りと恐れる村人たち。何があったのか?
田村医師が数人の村人から聞いた話では・・
疫病蔓延のおよそ半年前、豊吉は突然、異常なことを言い出した。
「直毘神様のお告げがあった。この村に、祟りによる厄災が起きる。」
彼が言うには、仮にも神に仕える井野口家を尊ばない村人に対して、
「直毘神がお怒りっておいでなのだ。」
これを聞いた村人は怒り、呆れた。そして井野口を罵倒した。
「拝み屋なんかを大事にしろなんて、それこそバチ当たりだ。」
「鬼門から入る厄病を受け止めるために、村に置いてやっているのに」
「ああいう仕事をしていると、たまに悪い神が乗り移るんだよ。」
だが、その半年後に拝み屋の予言が当たった。
「祟りだ。」
村人は一斉に震え上がった。
鬼門から入る厄病神から村を守る防波堤であるべき拝み屋は、自ら厄病神になったのだ。
六 頸木
厄災を予言し当てた井野口豊吉に恐れをなした小里の住人は、次々と村から離散した。
その後、井野口家はどうなったのだろうか?
その情報も、田村医師の日記に書かれていた。
疫病事件から十年後の昭和二十五年、豊吉の母が広屋病院に入院した。その時、付き添いで来たのは、豊吉の妹、はるだった。彼女はその三年ほど前、別の町に嫁いでいたが、母の容態が悪化したので里帰りしたのである。
田村医師は、ためらいつつ、豊吉のことを尋ねたが、はるは拍子抜けするほど気楽に話してくれた。それというのも、彼女は兄の豊吉か大嫌いだったというのだ。
はるが語った話とは・・・・
豊吉がまだ高等小学校に通っていた頃、豊吉と父の矢作は、村の集会に参加していた。
「豊吉を勉強させたい。」
実は小里を始め、この近辺の集落では、村の中に優秀な子供がいると、村中から学費を集めて、師範学校や専門学校などに行かせる慣習があった。現にそうして教師になった者もいた。
豊吉は医者になりたかったが、医学関係はお金がかかることを知っていので、せめて教師になることを望んでいた。そして父も、拝み屋でなければ、農家でも勤め人でもいい、普通の村人にさせたかった。
そこで成績優秀な豊吉の学費について、村の寄合で諮ってもらおうとしのだ。
だが、村人は誰ひとり、豊吉の進学を望まなかった。
「だれが拝み様の跡取りになるんだ?」
「豊吉もあと二、三年もすれば兵役だ。進学どころじゃない。」
「豊吉以外にも成績のいい子はいる。拝み屋より、そっちが先だ。」
そんな理由で豊吉の将来の夢は閉ざされてしまった。
井野口親子もある程度予想していた結果だ。井野口家への差別は今に始まったことではないからだ。
井野口家は、明治後期、豊吉の祖父の代にこの村に流れて来た旅の拝み屋だった。ちょうど先代の拝み屋が病死して妻子が実家へと去って行った直後で、村人が困っているところに流れてきたらしい。
だが、豊吉の妹、はるは言う。
「実は祖父は、拝み屋じゃなくて、ただの薬の行商人たったんだ。」
素性も理由もわからない旅人が、峠越えをして疲れきって、あわや野垂れ死にするところを小里の村人に助けられた。
売り物の薬もなくなり、帰るあてもないことから、村人はしばらく拝み峠の空き家に住まわせた。そこで祖父は、やがてここに住んでいた「拝み屋」がいなくなって村人が困っているという話を聞いた。
行商人として何でも売り歩いて来た祖父は、流れ者の拝み屋と何度も知りあっている。彼らのまねごとくらい、いくらでもできる。
「わしは若いころ七年間、拝み屋をして来た。ここの拝み屋はわしがやる。」
そんなハッタリに、村人は二つ返事で乗った。
村人も、鬼門の拝峠で、厄を身代わりのように受け止めて村を守らせる「拝み様」がいなくて不安だったのだ。
「井野口」という名字は、その時に村役場の小里支所で公認され、ここの住民となったという。
井野口は、その前にここで拝み屋をしていた者の名字だった。井野口は、代々拝み屋の名字だったのだ。それが村の慣習だったとはいえ、明治時代だからこそ通った話だろう。もともと「どこの馬の骨かわからない」者が、井野口家を継いだのだ。
豊吉はそんな出口の見えない拝み屋の呪われた【頸木】から逃れようとしたが、彼の進学は、夢と消えたのだ。
七 祟り神の正体
はるは、兄が進学の夢を断たれて荒んでいく姿をよく覚えている。勉強そっちのけで、時に変なことを口走るようになった。
「いいか、俺たちはいつまでもこんな崖の下のポロ家にくすぶってはいないぞ。村の奴らよりも上の立場になれるんだ。」
「そのうち、村中、俺たちのものになるぞ!」
豊吉は父が死んだ時は、こんな話もした。
「この峠から入ってくる厄病神を止めるのも、村に入れるのも、俺次第なんだぞ。俺にはそういうことが出来る力がある。」
兄・豊吉の話を、はるは「拝み屋として優れている」という自慢話程度に感じていたという。そして今なおはるは、あの疫病が本当に兄の仕業だなどと知る由もない。
「鬼門の厄病から守ることができるのを直毘神だというなら、俺だって神なんだよ!」
こんな話を、はるは信じなかったし、村人を執拗に憎む兄についていけなくなったのだ。
そして、昭和十三年の暮れ、村の正月を祝う準備の会合で、豊吉は、あの宣言をする。
「この村に祟りが起きるぞ!」
村人に言った「祟り」が現実のものとなったとき、はるに言った「村中が俺たちのものになる」のも現実となった。
村人はすべて別の場所に移転したが、田畑はそのまま彼らが来て耕した。でもその中に、誰も耕す者がいなくなった田畑もあった。これらは形式上国のものとなり、村が管理していたが、村役場の小里支所の職員だって村人の一員だ。井野口豊吉の恐ろしい祟りのいきさつを目の当たりにしている地元農民だ。
豊吉の要望を認め、その田畑は国から借用し豊吉が耕すこととなった。
そればかりか、一家全員が死亡した世帯の家屋のうち数軒を、豊吉かタダ同然で借用することになったのだ。
こうして、役場の屋江坂支所は行政上空白となり廃止となったが、井野口家だけがここに居住する唯一の世帯となった。
「村中が俺たちのものになる」
予言通りとなった豊吉は「拝み屋」を廃業したが、それでも時々、「旧・住民」が依頼に来ることがあった。あの恐ろしい祟りで、むしろ豊吉を「霊験あらたか」と畏れる「信者」もいたようだ。
八 田村宗助が垣間見た拝み様
あの疫病蔓延は、豊吉の仕業だ。
田村医師は、そう考えていたことを日記に記録している。
以下は、それまでの話を踏まえた田村宗助の想像だ。
【豊吉は何らかの形で実験したのではないか?
証拠はないが、梅雨に湿気込んだ拝峠の崖上の猪の糞と、崖の麓に落ちた燕の糞を特定の井戸や、個人の水筒などに垂らし込むくらいはできたかもしれない。】
【いすれにしても、村人を前に祟りの厄害を予言した豊吉は、確信に満ちていた!あれだけ村人に恐ろしい祟りを予言しておきながら、何事も起きなかったら、豊吉はただの狂人として潰されてしまうはずだ。あの確信は、何らかの根拠なくして得られるものではない。】
【豊吉は、赤痢菌と思しき感染源、すなわち厄病神を、瓶なとに入れて、深夜の小里をひっそりと、しかし鬼気迫る目をギラギラさせながら歩き回り、三か所の共同井戸にそれを垂れ流した。】
【今となっては、何の証拠もない。しかし、豊吉は村人に復讐した、私はそう捉えている。】
衝撃的な話だ。もしこれが事実ならは、他に類のない無差別大量殺人事件だ。
でも、この日記を娘の田村看護師長はどうする所存なのか?
「とても公けに出せませんよ。」
田村看護婦長は言う。
「実は、豊吉さんの妹のはるさんは、まだ生きています。」
昭和六年生まれの妹は、梅大師町のサラリーマンの家に嫁ぎ、八十歳代も半ばになる今も健在で、孫やひ孫に囲まれて暮らしているという。
もし、この日記が世に出れば、それがたとえ事実と証明されなくても、あの疫病事件で家族や家屋、田畑を失った子孫たちが黙っていないだろう。
ずっと昔のことで、確たる証拠もないのに波風を立てる意味はない。
田村はそう言って、亡き父の日記をもとの箪笥の奥に仕舞った。
まるで封印するように・・・・
豊吉は一人、ここに住み続けたが、昭和四十一年冬、拝峠の家で孤独死しているのを、妹が発見した。
医学も科学もない迷信が支配する時代、隔絶された山村で貧困や飢餓、死や病に怯えながら生きていた人々にとって、「鬼門」と言われる不吉な包囲の病魔は、まるで目に見えるように身近な脅威だったに違いない。
そんな中で神社仏閣の神主や僧侶は、警察官のように必要不可欠な存在だった。
だが屋江坂は、その神社さえ逃げだした「鬼門」の村なのだ。
そうした条件下で次々と病死していく歴代の【拝み屋】は、鬼門で身体を張って村を守る、言わば【生きた人柱】とも言えるだろう。
この話を現代の価値観で推し測ることはしできない。
しかし、村に流れ着いた生き倒れの旅人を病魔からの盾にして鬼門に住まわせるとは、なんと残酷な風習だろう!
朽ち果てていく小里の家屋は、平成の時代に入り、なぜか広屋町の特別予算が組まれて、すべて解体された。
それは、町議会議員の一部からの提案だという。小里出身の議員だろうか?
こうして忌まわしい【鬼門一族】の痕跡は、跡形もなく永遠に消滅したのだ。