序章1『始まりへのエピローグ』
「ねえ知ってる? 人が本当に死ぬときは、人に忘れられた時なんだって」
彼女はそう言って綺麗に笑った。
「だけどわたしは、それでも人間って幸せだと思うんだ」
「どうして?」
「誰に忘れられなくても、自分の心は終わらせられる。死ねばおしまい。生きていれば悲しくて、後悔ばかりが積み重なって……それでも終われるから」
「だけど死んじゃったら幸せだって感じられないよ?」
「ほんとに幸せなんてあるのかな」
そう言って彼女は空を見る。夜の闇に沈んだ空。
雲もないのに星がひとつも見えない。地上が明るいからだ。
この街は光に溢れすぎている。だから眩しくて、うつむくしかない。
みんな背中を丸めて、地面を見つめて歩いている。僕もそうだ。
だけど彼女は空を見た。
「幸せなんてないんじゃないかな。ただ、悲しみを感じられないだけ……」
僕には何も言えなかった。彼女が何に苦しんでいるのかなんてわからなかった。わかろうとしなかった。
空を見る彼女の瞳に映るのは、暗闇だけだ。
僕は映っていない。僕はそこにいない。
「いつか世界が後悔の海に沈んで、全てが消えてしまう日が来るとしたら、わたしは――」
僕は何もわかっていなかった。
だから全てを失った。失ったものは戻ってこない。取り戻せはしない。
全ては人の夢。儚い幻想なんだ。
だから僕は――
序章1『始まりへのエピローグ』
僕にとっては、それが唯一の思い出だった。今それを思い出す。
人が本当に死ぬときは、人に忘れられた時。
彼女はそう言った。
そして人間は終わることが出来るとも。全てを後悔の海に沈めて、なにもかも忘れて、消えていくことが出来ると。
それが唯一の救済だとしたら――物語はどうなる。
世界にあふれる全てのストーリーが完結するわけじゃない。
例えば一つ未完の物語があるとして。それが誰からも忘れられたら……残されたものはどこへ行くのだろうか?
消えてしまうのか? それとも消えないのか?
忘れられてしまえば、なかったことと同じになるのか?
そんな疑問を抱え続けていた。だから救わなければならなかった。物語の果てにあるものを見たかった。
立場も、家族も、仲間も。なにもかも投げ捨ててでも。
心の片隅に引っかかって消えないままの、孤独な物語。
終わらせなければならなかった。
だから僕は――ここにいる。
孤独の大地。
その大陸はそう呼ばれていた。
黒い水晶に覆われた広大な大地。失われた古代文明の遺産。
僕らはそこに立っていた。
一人はこの僕『勇者 ライン』。
一人はその宿敵『天魔王 ザハク』。
彼こそが倒すべき最後の敵なのだ。
この男を倒せば、忘れられた物語は完結する。全てが終わり、救済される。終わらないまま中途半端に生き続ける苦しみから開放される。
決戦の地に辿り着くまで、数えきれないほどの絆を捨て去ってきた。仲間、信念、正義、信じられるもの全てを。
残ったのは強さだけだ。そして強さを知る代償として僕らは孤独を得た。
孤独――それこそが王の力の本質だったからだ。
いまならわかる。天魔王ザハクもまた、同じ想いを抱いていると。
僕らは似ている。だから僕らはここにいる。向い合って立っている。
だから僕らは――
戦うことでしか始まれない。
戦うことでしか終われない。
僕と天魔王ザハクは互いに剣を構えた。最初から全てが決まっていることのように、どちらからともなく、当然のことのように。
何も言わず、ただ互いの存在を、強さを感じる。
僕は愛剣『デュランダル』を握りしめる。神々の時代より伝わる『神器』の一振りだ。無数の魔族を屠ってきた最強の武器。
天魔王ザハクもまた、黒い液体状の神器『虚無之刃』を収束状態にし、剣の構えをとった。
互いに剣は同等。勝敗を分けるは精神、技術、体力――などではない。
魂の強度。最終的に、強さとはその一点に帰結する。
静寂。
風のない夜空。虫も鳥の声もない。全てが無音に満ちた世界。
月と星だけが僕らを見下ろしている。
互いの息遣いが聴こえる。鼓動が伝わる。
理解しあっていると思った。剣を通じて、僕らはわかりあえていた。
憎しみも悲しみも全てここにはない。ただ静かで、僕らは救われていた。こんな時間が永遠に続けば良いとすら思った。
だけど、それじゃだめなんだ。僕が救われても、終わらない物語は永遠に救われない。
終わらなければならないんだ。
だから――
刃と刃がぶつかり合う。
刹那――世界が揺れた。
無音は一瞬で轟音に引き裂かれる。
互いの攻撃がぶつかり合うその衝撃で、孤独の大地の美しい黒水晶が砕け散り、雪のように降り注ぐ。
空が裂け、海が唸る。大気の層全体が暴れるようにこの惑星を揺らしていた。
戦いが始まった。
これが終わりのための戦い。その、第一歩。
終わりの――始まりだ。
勇者ラインと天魔王ザハクの最後の戦いが、今始まった。