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under a tree  作者: に*か
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 知らない方が幸せだった。

 そんなことはきっとある。


 高杉家の先祖代々の御先祖様たちはまぎれもなく、幸せだった。


 ***


「遺伝って罪だよなぁ」

 月が孤独そうに空を散歩していた頃、高杉家の長女である健光もまた弟に電話を掛けていた。

「あーうん、だねぇ」

 弟の疾風は至極眠そうな欠伸声だ。疾風の適当な返事にムッとした健光は文句を言うために口を開けかけたところを疾風に遮られる。

「ところで健ちゃん」

「何だ?」

 健光は緑の公衆電話に十円を入れながらそう聞いた。ドラえもんの財布を覗き込むと十円玉はあと、三枚だった。

「今何時か分かってんの?」

「三時だろ、俺の腹時計は結構な代物だ、間違いない」

 健光がお腹をさすりながら自慢げにそう言うと疾風は無言になる。

「な、何だよ。信じろよ、あと、三枚なんだ」

 遺伝の話に戻ろうぜ、と健光は眠そうにそう言った。

「健ちゃん、悪いけど僕今日――」

 ――学校なんだ、なんてとても言えるわけもなく。

「なんでもねーや、健ちゃん眠くない?」

「あ? まぁ、眠いわな」

 当然の如く言ってのける健光。疾風は思わず、ため息をつきそうになった。

 ……じゃあもうちょっと早い時間に電話してくれればいいのに。

 カチカチと腹立たしいほどに無感情に時を刻む時計を疾風はぼうっと見つめた。あぁ、僕の勉強している時間を避けているのか、とそう思い当たった。変な配慮の仕方だった。――睡眠時間を削られるほうが、僕は嫌なんだが。

「病院の就寝って九時なんでしょ? 明日起きられねーで看護師さんに迷惑かけても知らないよ?」

「いんだよ、そんなことはさぁ、それより遺伝――」

 今日の健光はやたらと遺伝の話をしたがる。何か、あったのだろう。うすうす感づかずにはいられなかった。

 枚数にして、あと二枚。百円玉もあるのだが、それを使う気は無いらしい。

「遺伝子ってのは本当に厄介で、罪作りな奴だ」

 疾風は大人しく聞いた方が早いと判断したらしく聞き役にまわる。沈黙が二人の間をフラフラとさまよった。

 健光は言う。

「なぁ、疾風。俺の病気は遺伝子の異常によるものらしい。高杉家の家系で代々病気が受け継がれていって、俺に遺伝したんだ。だからさ、俺らは――高杉家の家系は、続かない方がいいと思う」

 枚数にしてあと一枚。カランと硬貨を入れる無機質な音が疾風にも聞こえた。

 ――ぁあ、嫌な予感がする。

 疾風は受話器を握り締めた。手汗がじっとりと嫌な熱を持っていた。必死に不気味な気配から逃れようとしたが、ドロッとした真っ黒の影は疾風の喉の奥に堆積したままだ。つっかえて何も言葉を紡ぐことができない。疾風がその影をぐっと飲み込んだ刹那、

「俺たち、ガキは作らねえほうがいい。約束しろ、今、すぐに誓え」

 疾風はカラカラになった口を動かした。けれど、依然として言葉が出てこない。――あぁ、言葉は出てくるものじゃなくて、出すものだったかと、そんなくだらないことばかりが浮かんでは消えた。疾風の反応を窺うような沈黙があって、そして

「お……ちゃ…ご…ん」

 消え入りそうな声で、健光が何かを言った。

 ごめん、聞き取れなかった、もう一度言って。ようやく言葉が見つかって口を開きかけた。けれど、健光はそれを言う暇すら与えてくれなかった。即座に残酷な言葉が疾風の耳を貫く。

「じゃないと、――子供がかわいそうだ」

 ――カワイソウダ。

 疾風は自分の頭の中で、反復をした。

 健光の無感情な声を最後に、電話は切れた。何の起伏もない恐ろしい声だった。刹那、頭を鈍器で殴られたような衝撃が疾風を襲う。めまいが起こって視界がぐらぐらする。

 もし、我が子が自分と同じ病気になったとして同じように苦しんだとしたら――そう健光は仮定したのだろう。そして健光はその仮定の中の自分の子供をカワイソウだと思った、そういうことなのだろう。

 熱いくらいに頭が痛い。痛いくらいに目が熱い。

「お……ちゃ…ご…ん、か。――あぁ、そうか」

 残酷な言葉の前に言った健光の掠れた言葉が痛い。わからないほうがよかった。きっと知らないほうが幸せだった。

『おかあちゃん、ごめん』

 それは謝罪の言葉だった。私みたいなカワイソウな子を生んでくれるな。

 ――どうして、私を生んだんだ。

 母親を責める、娘の悲痛な叫びだった。


 ――生まれたくなかったな。生きるのが、苦しかった。親を責めるこんな醜い心が私の中にいたなんて。知らないほうが、幸せだった。

 誓いの言葉を聞くはずだった、その時間を作ってくれるはずだった残り一枚の十円玉を、健光は緑の公衆電話の脇にあるよく知りもしない募金箱の中へ投げ捨てた。

 月の散歩はまだ続く。真っ暗闇の中を、意味もなく照らしながら。夜空はブラックホールのように月の光を吸収する。闇は、深い。


 ***


 知らなかったから、それは罪ではない。じゃあ知ってしまったらそれは、きっと罪だ。

 ――高杉家のご先祖様たちは、罪ではない。知ってしまった健光や、疾風が子孫を残すことはきっと、罪なことだ。


 やっとの思いで電話をした。自分だけが背負うのは許せなかった。健康な疾風。採血すらもしたことがないという疾風。検査、検査、検査。毎日数時間刻みで行われる採血。健光はすでにその痛みに慣れ、両腕は傷跡で穴だらけだというのに。

「採血? したことないよ。予防注射はあるけどね」

 そんな言葉を健光は信じられない思いで聞いた。――採血をしたことがない人間がこの世に存在するなんて。

 皮肉すぎる自分の『健光』という名前。漢字は違えども、由来は、意味は『健康』だ。実に安直な名前だと自分でも思う。その健光はものの見事に両親の期待を裏切った。今では、疾風と逆だったならよかったのにな、と思う。疾風が健光で、健光が疾風なら――きっと、こんなに辛くはなかった。

 自分は『けんこう』などでは決してない。健光は病気の多い家系だと言って母親がつけた名前だった。男みたいな名前は嫌いじゃない。かつて健光は母親のその願いを込めた名前が、優しさが嬉しかった。小さい頃は、その期待をきちんと守れていたから。ただ、生きているだけで、元気に高らかに笑っているだけで、誇らしい気さえした。私はちゃんと名前の通り『けんこう』なんだ! そう言えたから。

 対して疾風は父親が名付けた。由来は何だったか、そういえば覚えていないことを思い出した。

 ――おかしいな。本当に思い出せない。

 今度、おとうちゃんに聞こうと健光はあまり自信のない頭のノートにメモした。

 健光はこの時、違和感を覚えつつも核心に触れることはなかった。健光の世界は幼いころに比べて遥かに小さくなっていたのだ。普通、成長すればするほど、たくさんの人と接し世界は広まって、精神は発達するものだ。けれど、健光は真逆だった。成長すればするほど、健光の世界から周りの人間は消えていき、やがて自分だけになった。闇の中を一人、歩んでいた。周りの人間を忘れていったといってもいい。実の家族でさえも、自分の病気の前には遠い存在でしかなかった。

「高杉さん、朝の採血に来ましたー」

 おじゃまします、と看護師さんが笑顔でカーテンから顔を覗かせた。健光は無言でただうなずいた。見覚えはあるけれど、名前はわからなかった。看護師は毎日何度も入れ替わるので、あまり自信のない健光の頭が一人一人の名前と顔を覚えているはずもない。

 右のパジャマの袖をまくりあげる。健光は左利きなので注射などは、なるべく利き手とは反対の腕にしてもらっていた。だから、傷も右腕のほうが多かった。

 看護師が健光の腕に軽く触れて血管を探す。健光は親指を中に入れてぐっと拳を握った。看護師の手は跡が集中したところから全く離れない。健光は顔をしかめた。

 ――あそこ(、、、)あそこだったら、ちゃんと前にやったところは避けて針を刺してくれるのに。

 案の定、傷跡から二ミリ程しか離れていない場所に刺される。痛みには慣れたけれど、痛みを感じないわけじゃない。健光は針が刺さった自分の右腕をぼんやりと眺めた。握りしめた拳に力を入れるのが難しくなってきた。血が抜かれている感じが腕を伝う。

 前は(、、)、採血のし過ぎで死ぬんじゃないだろうかと本気で考えたものだが、今やそんなことは頭をよぎりもしない。かつて、「採血のし過ぎで、看護師さんが吸血鬼に見えた」そう言って笑ったのは紛れもなく自分なのに――健光の顔に笑顔はない。

「はい、終わりましたよー。お疲れ様!」 

 看護師が駆血帯を解いた瞬間にドッと手に力が戻る。健光はしばらく、右手をグーパーグーパーと動かした。

「血が止まるまで一分ぐらい押さえといてくださいね」

 そう言って看護師は新たな傷跡に、たっぷりと消毒液を含んだ消毒ガーゼを四分の一に折りたたんで紙テープで貼る。健光はその上に指を乗せ、軽く押さえる。

 ――そういえば前は、力加減が全く分からなくて、無闇に押さえつけて消毒液を腕から垂らしていたなぁ。

 知らなかったんだ、血液の凝固作用がそんなにすごいなんて。――知らなかったんだ。

 指の力で血を止めようと必死だった、かつての自分の姿を思い出す。健光は思わず微笑んだ。本当に、何にも知らなかったあの頃は、幸せで、本当に、幸せだった。思い出すだけで心が温かくなる。人に焦がれ、憧れ、あんなにも尊敬したのは初めてだった。

 ――先生。先生、先生。

 もう、声も、顔も、かわした数少ない会話も、――忘れてしまったけれど。健光のあまり自信の無い頭は、やっぱり頼りにならなかったけれど、存在だけは強烈に、鮮烈に、覚えている。いや、忘れることができないのだ。涙が出るほど嬉しかった、あの思い出を、心を救ってくれたあの人を、忘れられるはずがない。

 けれど、今となっては、思い出すだけで痛かった。ズキズキと、心が痛む。心が温かくなると同時に、健光は奇妙な痛みに苦しんだ。最初は先生を思い出したときは元気が出て、何でもできるような気がした。最初のその頃は、ただそれだけで、心が痛くなるようなことは全くなかった。けれど、月日が流れてゆくうちに、小さな疼きから始まった痛みが次第に、確固たる痛みとして健光を襲い始めた。健光は無意識に、先生のことを思い出すことをやめていった。どうしても辛いときだけ、先生は頭の中に現れたけれど。そんな時は、涙で視界が歪んだ向こう側に先生の姿を探した。見つからないと、分かっていても探さずにはいられなかった。

 ――あぁ、あぁ、そうだ。思い出した。

 ふと、健光は自分の腕から看護師の顔へと視線を移した。看護師はにっこりと笑って後片付けをする手を止めないまま言う。

「朝食持ってきますね! お腹すいたでしょうー?」

「……はい」

 なんで、笑顔でいられんだ。

 ――そういえば、あそこの看護師さんたちもいつも笑ってた。

 そして、――引きずられるように健光も、笑っていた。

 看護師がお邪魔しましたーと言って去っていた。健光は腕をだらんと伸ばしたまま微動だにしない。

「あぁー。あああー! 駄目だああああああああ」

 突如、健光は叫んだ。現在、健光は一人部屋だった。

 決めていた。そう、こんなにもあっさりと健光の頭は忘れてしまっていたけれど、あの時、健光は固く決意をしていたのだ。

 かつて、辛くて、辛くて、夜空を見上げた時に願った言葉を思い出した。どうして、どうして忘れていたのだろう。つい、この間のことだったような気がするのに。少なくとも先生と出会ってのちのことだからわりと最近のことに間違いなかった。

 なのにこの様だ。

 新たな病気に落ち込んで、弟を傷つけて、あそことは違う看護師たちに苛立って、もう、最低だ。

 健光は立ち上がった。刹那、視界が暗くなる。世界がぐるぐると回っているような感覚がしばらく続いて、やがていつもの景色が健光の瞳に映り込んだ。

「――よし」

 健光はいつもの場所に向かった。

 先生を思い出すと、やっぱり胸が痛むけれど、その痛みは結構なものだけれど――元気が、勇気が湧いてくるのは変わらない。きっと、ずっと、不変だ。

 緑の公衆電話の前に立って、二、三回深呼吸をする。五回ほど唾をのみこんで、健光は受話器を手にした。四、五回ほど呼び出し音が鳴って、電話が繋がった。

「勉強中にすまん、疾風。俺、頑張るわ」

「……ハイ?」

「あの人が、この世に存在してるってだけで頑張れるようになるから。もう、絶対に――」

 ――忘れないから。

 足早にそう告げた。感情が勢い余って、最後まで言葉が続かない。

「………………」

 疾風は黙ったまま何も言わない。何の反応も見せない。健光は不思議に思った。そういえば、電話するのは昨夜以来だったことを思い出す。

 ぁあ、やってしまった。疾風も(、)ショックを受けたに違いなかった。もしかしたら、腹を立てているから沈黙しているのかもしれない。

 まぁ、でもあの疾風のことだ、案外あっさり受け入れて、朝から元気な姉に呆れて言葉が出ないだけという線もある。

 一人で勝手に落ち込んだり、勝手に元気出したり、健ちゃんは相変わらず忙しいなぁ、なんて思っているのかもしれない、などと健光は疾風の頭の中を想像してみる。

「……頑張れ」

 ――え。

 ようやく紡がれたその声に、嫌な、予感がした。

 そういえば、今日は何日だ。それに、何曜日だったか。――そうだ、月曜日だ。いけない、病院にいたら曜日の感覚がなくなる。

 健光は背中に嫌な汗を掻きながら冷静に考える。

 そして今は、午前十時だ。疾風は学校に行っていて、――真面目な疾風は、学校(、、)で(、)は(、)携帯電話(、、、、)の(、)電源(、、)を(、)切(、)っ(、)て(、)い(、)る(、)。

「……アンタ、誰だ」

 不信感丸出しの健光の声音に、電話の向こうの相手はあからさまな溜息を返した。

「それはこっちのセリフだ小僧!」


 ――過去を思って楽しい記憶しか思い浮かばないあなたは、幸せだ。過去を思って幸せな記憶しか思い浮かばないのに、胸が痛むあなたは、今、苦しんでいて、心は泣いている。


 ***


 少女は、恋をした。今まで生きてきた中で、一番大きくて、重すぎる恋を。


 四か月前。



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