狼の横顔
あの人は狼みたいなキスをする。
飢えて渇いた、荒々しいくちづけをくれる。
わたしの魂がもしも甘い水だったとして、あの人はそれをきっと飲み干そうとしているのだと思う。
そして、他の女の魂がもしも甘い水だったとしたら、それも躊躇せず口をつけるのだろう。
そういう男だ。
口約束でしかなかった。社交辞令。今度飲みに行きましょう、なんて。
まさか本当に行くことになるなんて思わなかったから、わたしは浮かれてはしゃいでいた。彼の友達がやっているという、カウンターだけの小さな飲み屋。
ため息が出るほど長い脚を黒いタイトなジーンズに包んで組み、七月の蒸し暑さに汗ひとつかかず長袖の黒いシャツを着ている。彼はわたしの隣で日本酒を飲んでいた。
「飲んでる?」
「飲んで、る」
そう、と薄い唇で彼は微笑む。切れ長の細い目。
彼は狼みたいな横顔をしている。
「酒、本当は苦手なんだろう」
甘い梅酒を持て余しているわたしに、彼はカウンター向こうの友人から氷をひとつもらうと、素手で受け取ってコップに入れてくれた。節のすんなりとした、長い指。濡れた指先をわたしの前で広げて、軽く振る。
思わず、舐めてしまいたく、なる。
「無理して飲まないでいいさ、酔うぞ」
「酔ったら、どうします?」
「置いて帰る」
「ひどい」
「嘘だよ、俺に食われるよ」
「……本当?」
「嘘だよ」
「なんだ、」
「って、言って欲しい?」
人の顔を覗き込んで涼しい顔でそんなことを言う、わたしは彼の瞳に自分が映っているのだと思うだけで頬が燃えるように熱くなる。
フードの付いた、赤とオレンジのチェック柄をしたポンチョを羽織っていた。それでも十時も回れば外は涼しい風が吹く。ノースリーブの、胸元にフリルのあるブラウスだけでは肌寒い気がした。赤ずきんみたいだ、と彼が目を細めた。
店を出たのは、指を絡めてしまったからだった。
二杯目の梅酒で酔ったわたしは、彼に向って微笑んで上半身を傾けた。
大きな手が伸びてきて、支えるのではなくカウンターの下で手を握られる。指と指を絡めて、その熱さに驚いた。静かな顔をしているくせに、この人は身体のどこへこんな熱を隠しているんだろう。
「――行く?」
どこへ、と聞かなくてもわたしには分かった。だから、ひとつだけ頷いた。
彼は満足そうにやわらかな表情をすると、友達だという店主に片手を上げて会計を合図した。
表に出た途端、抱きしめられて呼吸が詰まる。
人通りがないわけではない。飲み屋がいくつか立ち並ぶ小道なので、行き交う人々は多少なりとも酔っているのかもしれないけれど。
人の目が、と言う前に唇は塞がれた。
荒々しく重ねられた唇は、強引にねじり込まれる舌によってこじ開けられる。
引きずられて押し戻される。歯の裏側を舌先が撫でる。吸われて離れる。乱暴に、される。
まわされた腕の力が痛いくらいで、そのくせわたしは力が抜けていく自分を自覚する。下唇を噛まれる。互いの呼吸が甘く熱を帯びる。頭の中が真っ白になる。
もっと。
もっと、もっと。
貪欲に欲望は膨らんでいく。果てを知らない、風船のように。
「どうして欲しい」
唇が微かに離れた瞬間、そう聞かれた。離れたくなくて、わたしは爪先立ちで彼に身を寄せる。唇を離せば、死んでしまう。
おへその下の方から熱く突き上げてくる塊がある。
それが、わたしの喉を突き破ろうとせり上がってくる。
「滅茶苦茶にして――」
それ以外になにが言えただろう。
キスなんて誰とでもできる、でも誰とでもすることに意味なんてない。この人とでなければ意味がない。
「……好き」
「ありがと」
「本当に」
「俺もだよ」
「嘘」
「嘘じゃないさ」
「……いつから?」
「お前が俺を好きになってくれた、その瞬間から」
「……大好き」
「知ってる」
「大好き」
「知ってるよ」
「うぬぼれてる」
「もっと」
「もっと?」
「俺を、うぬぼれさせて?」
重なり合って倒れ込む、小さな部屋の灰色をしたベッド。肌と肌がぶつかる、互いの服を脱がせつつ指を絡める、腕に触れる、頬をこすりつける、キス。キス。キス。
空気がとろけ始める、噛んでいい? と聞かれてわたしは頷く。唇は微笑みの形しかもう作れない。どうして、と聞く声が甘くやわらかい。自分の声ではないみたいに。
「歯が」
「歯が?」
「痒いから」
「なに、それ」
嘘だよ、と彼は言う。
「痕をつけておきたいんだ」
「戦利品として?」
「違う、俺のことを忘れられないように」
「キスマークじゃ、」
「そんな生ぬるいものは二日も経てば消える」
「噛み千切る?」
彼は頭を左右に振る。長く黒い前髪がさらさらと揺れる。
左の二の腕、やわらかな裏側を咥えられる。
「痛っ!」
遠慮なくそのまま力は加えられ、わたしは悲鳴を上げる。
痛い、と言ったけれど、本当はよく分からなかった。最初は。ぎゅうぎゅうと力いっぱい挟み込まれた感覚だけがあった。やわらかな、肉を。
痛みに眉根が寄る。
苦痛に顔が歪む。
唇が開いて、空気を吸う。目尻に涙がたまる。
「はな、して……」
腕にかじりついている彼の頭、髪の毛に手を突っ込んでどうしていいか分からなくなって指に絡めた。
「痛い、の……」
痛みは残る。
身体にも。
心にも。
痛みは傷になる、切り刻まれて消せない傷に。身体の傷は時間の経過と共に薄れていったとしても、不意に記憶は甦る。
彼は顔を上げる。
わたしの腕は解放される。
彼の歯は血に染まったりはしていない、けれどわたしの腕のやわらかな内側は可哀想なほど真っ赤になっている。もう少ししたら、綺麗な青紫に変わるはずだ。
彼の手が伸びる。
長い指が、わたしの頬に触れる。
撫でる。
「ごめん」
「――本心じゃないくせに」
「それでも」
「謝らないで」
「じゃあ、もっと傷付けてあげる」
うん。頷くと髪が揺れて、甘く香る。
「赤ずきんちゃん」
「なあに、狼さん」
「あんまり可愛い顔してると食っちゃうよ」
「食べられちゃうのはどっちなのかしら」
上半身はすっかり脱がされてしまっていたから、ジーンズ生地のフレアなミニスカートの端を持って軽く持ち上げみせる。
まあな、と彼は目を細めた。
「結局下の口に食われるのは男の方だもんな」
「エッチ」
「しない?」
「……する」
「したい?」
「……したい」
わたしは彼のふくらみに手を伸ばす。きちんとした硬さ。そして、こもる熱。
わたしを滅茶苦茶にして欲しい、壊して欲しい、気を失うくらい乱暴にして欲しい、うんとひどく扱ってから。
本当に欲しいものをひとつだけ。
ちょうだい。
「なに」
「……え、」
「笑ってる」
「わたし?」
「そう、可愛い」
「……照れる」
「可愛い」
「やめて、」
「可愛い」
「ちょっと、」
「おいで」
手首を引かれて倒れ込む、わたしはびしょびしょに濡れている。蜜をしたたらせて、誘う。花と同じ。
彼の手は乾いていてあたたかい。
「うんと、乱暴にして」
分かった、と言ったのか、嫌だよ、と言ったのか分からない、彼は薄い唇を軽く開いたけれど、言葉は聞こえなかったから。
ただ、わたしの顔を見る。
静かに。
ぐちゃぐちゃにして欲しい、身体中に噛み付いて他の誰にも真似できないような傷跡をつけて欲しい、貫いて揺さぶってくらくらにさせて欲しい。忘れられないように。彼がわたしを忘れても、わたしは永遠に覚えているように。魂を、傷付けて欲しい。
「でも最後に、」
気持ちいいむさぼるようなキスをちょうだい、とわたしは言えなかった、彼が唇を重ねてきてしまったから。
「――バカな女」
狼の横顔で彼が言う、頷いたわたしの髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜて、嘘だよ、と囁く。
彼が同じように他の女を抱いたとしても、今この瞬間だけはわたしのものだ。彼の瞳にはわたししか映っていない、他のなにも入り込むことはない。
「……本当は、女なんて嫌いなんでしょ?」
微かな苦笑が漏らされる、わたしはその吐息を唇で受ける。
彼の唇が首筋に落ちた。
わたしは目を閉じる。
彼の肌の匂いがする。
肌と肌が触れる。わたしは溺れるほどに濡れてゆく。溺れて溺れて、びしょびしょになりながら強く渇いていく。足りなくて泣きたくなる。すべてが。
どうせ狼のような目をしているのなら、噛み千切って引き裂いて、身体を裏返すようにして内臓からむさぼって欲しいのに、と強く願うけれど、それは言葉という形にされることのないまま互いの体温にゆるりと溶けた。