09 黒い海
それからというもの、僕は時間さえ許せばヒカリに会いに行くようになった。ヒカリはいつ行ってもそこにいた。僕はそれが不思議でならなかったが、深くは聞かなかった。聞いてはならないような気がして。
海の水もそろそろ冷たくなった頃だ。ネルはどうやら南の方へ一足先に行ってしまったらしい。
「君も、さ。行かなくちゃだめだろう?ああ、ほら、海の水がもうこんなに冷たい」
「平気よ。私、これくらいが好きなの」
笑ってみせるヒカリは、それでもいつもとは違う白い肌をしていた。
「そう……?でも、ほんとに九月になる前までには南へいけよ。九月は台風が来るようになるからな」
「分かってる」
もう何度こんな会話をしただろう。その度に僕たちの間には曖昧な空気が流れた。
それから暫く、僕は仕事にかまけて彼女に会いに行かなくなった。もう九月終わりだ。天気予報によると、この週末の土曜日には台風がくるらしい。
ヒカリはきっともうどこか遠くへ行っているだろう。
少し寂しいな、と思いつつも、それが彼女達なんだから仕方ないと割り切った上で、僕は海に降りてみた。
「ヒカリ!」
驚いた。彼女はまだこの地に留まっていた。声に気付いてはっと振り返ったヒカリは、嬉しそうに寄ってきた。
「何してるんだ」
思ったよりも語気が強く、少しの沈黙があった。
なるべく怖がらせないよう、僕は慎重に言葉を選んだ。
「なんでまだここにいるんだ。もう寒いだろう。九月前には南へ行けと言ったのに……」
ただでさえ、病弱であると言われたのに。
「ごめんなさい、でも大丈夫よ。もう少しくらいなら……」
目を合わせようとしない彼女に、僕は一種の苛立ちを覚えた。その時、彼女の髪に何か絡まっているのが見えた。
取ってみると、それはただの藻だった。しかし、触った僕の手には黒い跡がついた。
「これは……」
まさか、ヘドロのようなものか?嘘だろう。なにしろ人魚は比較的綺麗な水でなければ駄目なのだから。
「ヒカリ、まさか工場のすぐ側に行ってるなんてこと、ないよな?」
彼女は一瞬びくっとした。嘘のつけない子だ。行っているのだろう。
工場からの排水の温かさを求めたのか。
「お願い、もう少し―――」
「だめだ。行くんだ」
ヒカリは驚いたように僕を見上げた。そういえば、僕は今まで彼女にこんなふうに接したことはなかった。
「どうして?どうして駄目って言うの!?」
僕はかなりいらいらした。聞き分けのない駄々っ子のような彼女は、善悪の分からぬ仔犬のようで、どう扱えばよいかすら分からなかった。
「だめだ」
「なんで?私のこと、嫌いなの?」
次の瞬間、自分でも思いもよらない言葉が口をついて出た。
「ああ、嫌いだね。そんな聞き分けのない子は」
しゃがんでいたのを止め、立ち上がり様にそう言い捨てた僕は、恐らくすごく冷淡に見えただろう。彼女は俯くと、ただ一言だけを発した。
「分かった」
そしてそのまま踵を返すと、波立つ水面に白い泡だけを残して去っていった。




