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人魚姫  作者: 沖津 奏
9/11

09 黒い海

 それからというもの、僕は時間さえ許せばヒカリに会いに行くようになった。ヒカリはいつ行ってもそこにいた。僕はそれが不思議でならなかったが、深くは聞かなかった。聞いてはならないような気がして。


 海の水もそろそろ冷たくなった頃だ。ネルはどうやら南の方へ一足先に行ってしまったらしい。


「君も、さ。行かなくちゃだめだろう?ああ、ほら、海の水がもうこんなに冷たい」


「平気よ。私、これくらいが好きなの」


 笑ってみせるヒカリは、それでもいつもとは違う白い肌をしていた。


「そう……?でも、ほんとに九月になる前までには南へいけよ。九月は台風が来るようになるからな」


「分かってる」


 もう何度こんな会話をしただろう。その度に僕たちの間には曖昧な空気が流れた。




 それから暫く、僕は仕事にかまけて彼女に会いに行かなくなった。もう九月終わりだ。天気予報によると、この週末の土曜日には台風がくるらしい。

 ヒカリはきっともうどこか遠くへ行っているだろう。

 少し寂しいな、と思いつつも、それが彼女達なんだから仕方ないと割り切った上で、僕は海に降りてみた。


「ヒカリ!」


 驚いた。彼女はまだこの地に留まっていた。声に気付いてはっと振り返ったヒカリは、嬉しそうに寄ってきた。


「何してるんだ」


 思ったよりも語気が強く、少しの沈黙があった。

 なるべく怖がらせないよう、僕は慎重に言葉を選んだ。


「なんでまだここにいるんだ。もう寒いだろう。九月前には南へ行けと言ったのに……」


 ただでさえ、病弱であると言われたのに。


「ごめんなさい、でも大丈夫よ。もう少しくらいなら……」


 目を合わせようとしない彼女に、僕は一種の苛立ちを覚えた。その時、彼女の髪に何か絡まっているのが見えた。

 取ってみると、それはただの藻だった。しかし、触った僕の手には黒い跡がついた。


「これは……」


 まさか、ヘドロのようなものか?嘘だろう。なにしろ人魚は比較的綺麗な水でなければ駄目なのだから。


「ヒカリ、まさか工場のすぐ側に行ってるなんてこと、ないよな?」


 彼女は一瞬びくっとした。嘘のつけない子だ。行っているのだろう。

 工場からの排水の温かさを求めたのか。


「お願い、もう少し―――」


「だめだ。行くんだ」


 ヒカリは驚いたように僕を見上げた。そういえば、僕は今まで彼女にこんなふうに接したことはなかった。


「どうして?どうして駄目って言うの!?」


 僕はかなりいらいらした。聞き分けのない駄々っ子のような彼女は、善悪の分からぬ仔犬のようで、どう扱えばよいかすら分からなかった。


「だめだ」


「なんで?私のこと、嫌いなの?」


 次の瞬間、自分でも思いもよらない言葉が口をついて出た。


「ああ、嫌いだね。そんな聞き分けのない子は」


 しゃがんでいたのを止め、立ち上がり様にそう言い捨てた僕は、恐らくすごく冷淡に見えただろう。彼女は俯くと、ただ一言だけを発した。


「分かった」


 そしてそのまま踵を返すと、波立つ水面に白い泡だけを残して去っていった。


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