03 ヒカリ
黒い鞄を開けると、そこには注射器や薬瓶のようなものが入っていた。
「なあにそれ?」
女性が手袋をして、慣れた手つきでネルを抱き上げた。
「ちょっとちくっとするけど、我慢してね」
いつも言われているセリフなのだろうか。それを聞いてネルは急にびちびちと暴れ始めた。
女性は何でもないように、ネルの右肩に注射を打った。
「ごめんねー、痛かったね。泣かないのね、偉い偉い」
ネルは照れくさそうにしている。
「じゃ、次、そっちの子」
ヒカリは急に抵抗を始めた。女性はスーツに水をかけられたりしながら苦戦している。
「おい、何だあれ」
僕は中本に尋ねた。
「ああ、マイクロチップさ。個体管理には便利でね。…知らなかったのか?」
何せ僕は金を出して、放した人魚の様子を見に行くくらいしかしていないのだ。知る由もない。
やっとヒカリにチップを埋め込んだようで、女性がフラフラと鞄を片付けている。だいぶ派手に水濡れだ。
「あの黒髪の子、怪我してました」
「怪我?」
「ええ、左手首を痛めているみたいです。あと、擦り傷も」
「ふうん…。さっきの急ブレーキでやったかな」
その後、二人は一度NPOの施設に引き取られることになった。
しかし、僕は手を挙げた。
「あの…ヒカリを預からせてくれませんか」
「え?」
女性がきょとんとした。
「僕、樺島製薬会社の社長をしています、樺島大紀といいます」
「あの樺島製薬の…?」
「はい、それで今、人魚にも効く薬を開発していて。この前、水中でも使えるキズ用の薬を開発したんです。サンプルってわけじゃないですけど…」
女性はじっと僕を見ている。
「もちろん、そちらの判断で構いません」
僕は付け加えた。
女性はくるりと向きを変え、ヒカリに話しかけた。
「ねえヒカリちゃん。今からお友達のいっぱいいる所に行くか、このおじさん家に行くか。どっちがいい?」
「お・に・い・さ・ん、ですよ、近藤さん」
「あら失礼」
ヒカリは近藤さんと呼ばれた女性を見た。
「おともだちって、わたしやネルみたいな?」
「ええ、おにいさんの所には一人で行かなくちゃいけないわ」
尾びれをぴらぴらさせながら、ヒカリは考えた。
「ねえ、おばさん」
「お・ね・え・さ・ん」
いや、無理ありすぎだろ…。
ヒカリは呆れ果てたような顔だ。けど、なんていい子だろう。次の呼び掛けで僕はそう思わざるを得なかった。
「ねえ、おねえさん」
「なあに?ヒカリちゃん」
「わたし、あのおにいさんとこがいい」
おっと、マジですか!
僕はにこっと笑いかけた。ヒカリが笑い返す。…結構可愛い。
近藤さんが僕の方に向き直った。
「それじゃ、あの子のことお願いするわ。怪我だけじゃなくて体調もあまり良くないみたいだし」
人魚の肌は白い。しかし、ヒカリは病的に白かった。
「もしネルちゃんの前で死なれたりしたら、二人共可哀想だわ。それに、ネルちゃんは大丈夫かもしれないけど、何人もの人魚の中に急に入ったりしたら、ストレスになるわ」
そしてヒカリもこちらを選んだ。文句はあるまい。
「何もないと思うけど、もし何かあったら、ここに電話してね」
近藤さんと僕は名刺を交換した。
ネルはNPOの用意した水槽へ移され、ヒカリはトラックに積まれていた水槽に残った。
二人は別れを惜しんでいたが、海に帰る時は二人一緒だと聞かせられると、何ともあっさりと別れた。
幸いにも僕の家は独り暮らしにしては広い一戸建てだし、海にも近い。
ヒカリの水槽は使っていない部屋に置いた。寝室の隣の部屋だから、何かあればすぐ行ける。
「なあお前、ショタってことはないよな?」
コーヒーを入れる僕に中本が聞いた。ないって、と僕は即答する。
「会社一筋もいいけど…女作れよ、女。行き遅れるぜ」
「はいはい…」




