10 陸にあがった人魚姫
僕は海へ行かなくなった。きっともう彼女はいないだろう。心ないことを言ってしまったが、もうどうしようもない。ほんの僅かな間の出会いは、一瞬で終わったのだ。
しかし台風が近付き、空模様が怪しくなるにつれて、僕はやはり心配でならなかった。
「悪いけど―――早退する」
会社を早めに切り上げ、僕は海へ向かった。地面に叩きつける雨音に鼓動が重なる。気持ち悪くて吐きそうだ。
海は荒れていた。灰色で、遠くは空と海の区別がない。合羽を着て、僕は慎重に海へ降りた。
息を飲んだ。ゴツゴツした岩場に、白いものがある。
「ヒカリ!」
駆け寄ると、冷たい水が足を濡らした。
ヒカリは薄目を開けて僕を見た。
「ごめんなさい……どうしても、言いたくて……ごめんなさい……」
こめかみと後頭部が熱い。
反対にヒカリの体は冷めきっていた。
僕はすぐさま近藤さんに電話をかけた。彼女はすぐ行くと言ってくれた。
本当に車を飛ばして来たみたいで、近藤さんはすぐ来てくれた。僕はヒカリを引き上げ、雨の当たらないところへ連れていったばかりだった。
近藤さんは手際よく彼女を連れ込み、ワゴンの扉を閉め、僕に乗れと言った。
「行くわよ。あなた達、運が良かったわ」
「えっと、それはどういう……?」
ワイパーが激しく水を散らす。
「ドクター・ロック。彼が今、藤本教授のところへいらしてるのよ。お土産をもって、ね」
車は藤本教授の研究所に入った。何から何まで設備の整った場所だ。
ヒカリを見た教授は卒倒する勢いだった。ドクター・ロックはため息をついた。
「やってみるかい、フジモト。材料は揃っているんだろう」
「ええ……可能性があるなら」
二人はヒカリを連れ、手術の準備を始めた。
「ちょっと、何するんですか!ヒカリになんかしたら、いくら世界の頭脳だからってただじゃおきませんよ!」
詰め寄る僕を、ドクター・ロックは制して近藤さんを見た。
「ミセス・コンドウ。君から話してもらえるか」
「オーケー、ドクター」
二人は歩いて行った。
僕はソファに座り込んだ。
「どういうことです……」
「どういうこと?こっちが聞きたいわ」
近藤さんは激しい口調で言った。
「言ったはずよ。人魚に魅入られると、溺れてしまうって」
「その意味がわからないんですが」
近藤さんはため息をつき、今のあなたのことよ、と言った。
尋問が始まり、僕はこれまでのいきさつを全て話した。呆れた顔で僕を見た近藤さんは、喋り始めた。
「運が良かった、と言ったのは、ドクター・ロックじゃないわ。勿論ドクターもだけれど、彼のお土産ね。なんだと思う?」
さあ、と僕は首を傾げる。
「ヒカリはね、もともと実験のモルモットだったのよ。藤本教授から聞いた?そう。でも、ただのモルモットじゃないわ。ドナー。人間のドナーとして創られたの」
近藤さんは一息ついた。
「彼女はある女性のDNAを組み込んで創ったの。その本体が何かあったら、すぐに交換出来るように。まあ、下半身は魚だけど。でもね……その人、先日事故で亡くなってしまって。ドクターがそれを聞いて、体をすぐ保存してこっちへ持ってきたの。勿論これはレシピエントの生前の同意に基づくわ」
「ってことは、今ドクターと教授は……」
「実験をしてるのよ。ドナーとレシピエントが入れ替わっただけよ。やってることは同じだわ」
そんなことがあっていいのか、と僕は憤りを覚えた。しかし、ふと思った。ヒカリが生きれるならなんでもいいじゃないか。
近藤さんはそれを見透かしたように言った。
「ほら、あなた今思ったわね。ヒカリが助かるならどうでもいいって。同じことよ。あなたは今、彼女と同じDNAを持つ女性をドナーにしたんだわ」
気まずい沈黙が流れた。そのまま三時間が経った。彼らはまだ手術室から出てこない。
「ドクターと教授はヒカリから声を取り上げたりしないけど……いい?彼女を泡にするかどうかは、あなたにかかってるのよ。これからどうするか、よく考えるといいわ」
「大丈夫です」
僕は不安の中、近藤さんの言葉の中に一つの希望を見いだして微笑んだ。
「僕達は、人魚姫を泡にしない方法を知っていますから」




