心が動かない
王宮の一室は、静かだった。
窓は閉められ、香も焚かれていない。
寝台の周りにあるのは、包帯と消毒用の器具だけ。
「次の治癒能力者を」
淡々とした声がして、扉が開いた。
エリナは、一歩、室内に入る。
視線はまず傷の状態へ向かった。
包帯の端。血のにじみ。熱。呼吸。脈。
患者の顔は、最後に見る。
――そこで、止まった。
バルディンは目を開けていた。
こちらを見ているわけではない。
天井の一点を、ただ見つめている。
(……殿下)
名前は口にしない。
ここでは、治癒能力者と負傷者だ。
エリナは静かに近づく。
「傷口を確認します」
手を伸ばした、そのとき。
「――いい」
低い声だった。
拒否の響きだけが、はっきりしている。
指先が、空で止まる。
「……よろしいのですか」
確認する。
職務として。
バルディンは、ゆっくりと視線を動かした。
初めて、彼女を見る。
以前のように測る目ではない。
欲しがる目でも、試す目でもない。
ただ、距離を測っている。
「治さなくていい」
一拍。
「命に別状はないと聞いた」
事実だけを並べる口調。
エリナはもう一度、傷を見る。
致命ではない。時間はかかるが、自然治癒も可能だ。
――それでも。
胸の奥に、言葉にならない引っかかりが残った。
拒絶されているわけではない。
怒りも、苛立ちもない。
ただ――
自分の命を、こちらに渡す気がない。
それが、はっきり伝わってくる。
「……承知しました」
そう答えるしかなかった。
エリナは一礼し、道具を戻す。
踵を返す直前、もう一度だけ視線が落ちる。
寝台の横、床に落ちたままの外套――血で濃く汚れている。
回収されていない。
処分もされていない。
理由は分からない。
分からないまま、扉へ向かう。
背中に視線を感じた気がして、振り返りそうになる。
――やめる。
振り返らない。
同じ場所に立ってしまった。
それだけが、確かな事実だった。
――
王女の声は、穏やかだった。
「無理をなさらないでください」
「医師も、しばらく静養をと」
どれも、正しい。
気遣いとして、申し分ない。
バルディンは、頷いた。
「分かっている」
声も、表情も、問題はない。
王女は安堵したように、少し息を吐く。
「あなたが倒れたと聞いたときは……驚きました」
「でも、こうして話せて、安心しています」
その言葉も、理解できる。
心配される理由もある。
返すべき言葉も、分かる。
「心配をかけたな」
そう言って、視線を向ける。
王女は、まっすぐこちらを見ていた。
逃げない目。
期待しすぎない距離。
よく出来た関係だ。
――だからこそ。
胸の奥は、静かなままだった。
感謝もある。
配慮も分かる。
だが、
何かが動く気配はない。
王女が一歩、近づく。
歩みは安定している。
足取りに、もう迷いはない。
「……こうして歩けるのも、あなたのおかげです」
礼を言われている。
誇るべき成果だ。
それなのに。
「そうか」
それ以上、言葉が続かない。
王女は、少しだけ首を傾げた。
不満ではない。
戸惑いに近い。
「……お疲れですか?」
「いや」
即答だった。
嘘ではない。
疲れてはいない。
傷も、痛むだけで済んでいる。
判断も、鈍っていない。
ただ。
(……何も、響かない)
喜びも、
満足も、
期待も。
どれも、胸に留まらず、抜けていく。
王女は、それ以上踏み込まなかった。
賢明な距離だ。
「では、また改めて」
そう言って、踵を返す。
その背中を見送りながら、
バルディンは思った。
(……悪くない)
何も、間違っていない。
それなのに。
部屋に一人になると、
静けさが、広がる。
満ちてもいない。
欠けてもいない。
ただ、空白がある。
バルディンは、視線を落とした。
机の端に、
畳まれていない外套が見える。
触れない。
理由は、もう考えない。
何を言われても、
何を与えられても、
心が動かない。
それだけが、
今の現実だった。




