生き延びる理由
支度は、すでに終わっていた。
持って行くものは、
必要な分だけ。
余分な物は、ない。
執務室に戻り、
最後に灯りを確かめる。
机の端に、外套が置かれている。
そのままだ。
畳まれてもいない。
しまわれてもいない。
ただ、そこにある。
バルディンは、近づかない。
触れれば、
何かを決めてしまう。
決める必要は、ない。
この場所に、
自分が戻る予定はないのだから。
外套を残したまま、
灯りを落とす。
扉を閉める。
鍵の音が、
夜に小さく響いた。
ーー
戦場は、騒がしくもなかった。
怒号も、雄叫びも、
最初のうちだけだ。
あとは、
音が削れていく。
土を踏む音。
金属がぶつかる音。
誰かが倒れる音。
それらが、区別できなくなる。
バルディンは、前を見ていた。
判断を下し、
指示を出し、
それを実行する。
それだけだ。
勇敢でも、無謀でもない。
ただ、必要な位置に立っていただけ。
違和感は、音から来た。
鈍い衝撃。
骨に直接触れたような感触。
次に、
熱が遅れてやって来る。
膝が、崩れた。
衝撃の中で、
咄嗟に身を守ろうとはしなかった。
避けることも、
踏みとどまることも、
できたはずなのに。
(……まあ、いいか)
そう思った自分に、
驚きはなかった。
ここで終わっても、
誰かの人生が狂うわけではない。
王国は回る。
戦も続く。
彼女の生活も、
自分がいなくても、
何一つ困らない。
死んでも構わない、
というより――
生き延びる理由が、
特に見当たらなかった。
だから、
身体を預けるように、
そのまま崩れた。
誰かが名前を呼んだが、
振り返らなかった。
地面が、近い。
倒れる瞬間、
頭に浮かんだのは、
戦況でも、部下でもない。
(……まだ、終わってないな)
それだけだった。
意識は、すぐに切れた。
⸻
目を覚ましたとき、
天幕の布が視界に入った。
消毒の匂い。
薬草の苦味。
痛みは、ある。
だが、叫ぶほどではない。
「殿下、命に別状はありません」
淡々とした報告。
称賛も、安堵も、
余計な言葉もない。
それで、十分だった。
傷は、深いが致命ではない。
しばらく、歩けない。
それだけだ。
(……帰るのか)
戻る場所がある、
という意味ではない。
運ばれる先が、
王都だというだけだ。
バルディンは、目を閉じた。
生き延びた理由を、
探す気はなかった。
守ったものも、
成し遂げたことも、
ここにはない。
ただ、
まだ息をしている。
それだけの結果だった。
外では、
戦は続いている。
自分がいなくても、
回る。
その事実に、
失望も、安堵もない。
バルディンは、
天幕の薄暗さの中で、
次に起きることを考えなかった。
治るかどうかも、
どう扱われるかも。
考える必要は、なかった。
生きて帰る。
それ以上でも、
それ以下でもない。




