戻る場所は、もうない
朝、執務室に入った瞬間、
バルディンは、机の上を見た。
――ない。
一拍、遅れて理解する。
書類。
印章。
杯。
いつも通りだ。
だが、
その端にあるはずの布がない。
外套。
視線が、無意識に机の上をなぞる。
端から端まで。
置き直した記憶は、ない。
(……ない)
胸の奥で、何かが跳ねた。
痛みではない。
焦りとも、違う。
ただ、
予定にない欠落。
バルディンは、何事もなかったように席についた。
書類を開く。
文字が、頭に入らない。
指が止まる。
呼吸は、乱れていない。
顔色も、変わっていない。
それなのに。
「……清掃は、終わったか」
声は、低く、平坦だった。
「はい。今朝、すべて済ませております」
一瞬だけ、間が空いた。
「……机の上にあった布は?」
従者が、首を傾げる。
「外套でしたら、片付けましたが……
不要かと判断し、倉へ――」
「どこだ」
言葉が、思ったより早く出た。
従者が、目を瞬かせる。
「倉庫です。すぐに――」
「持ってこい」
理由は、言わない。
説明も、しない。
ただ、
戻せという命令だけが、喉から落ちた。
従者が慌てて部屋を出ていく。
バルディンは、机に肘をついた。
胸の奥が、ざわつく。
失ったわけではない。
処分されたわけでもない。
ただ、
そこにない。
それだけの事実が、
どうしてこんなにも、落ち着かないのか。
(……触れていただけだ)
一日一度。
無意識に。
意味もなく。
感情もなく。
それなのに。
扉が開く音がして、
従者が外套を抱えて戻ってくる。
「こちらです」
布が、机の上に置かれた。
元の位置。
それを見た瞬間、
胸の奥が、静かに沈んだ。
安心でも、安堵でもない。
ただ、
元に戻ったという事実。
「……もういい」
それだけ言って、
バルディンは書類に視線を戻した。
指先が、紙を滑る。
その途中で、
無意識に、布の端に触れた。
いつもの感触。
冷えた厚み。
それで、今日も一日が始まる。
何も起きないまま。
何も戻らないまま。
ーー
夜の執務室は、静かだった。
書類の整理は、すでに終わっている。
灯りを落とすには、まだ早い。
バルディンは、卓の上の一枚に視線を落とした。
王都南区。
薬局名。
登録者一覧。
――エリナ。
薬剤師。
肩書きは、それだけだった。
治癒能力者。
王宮専属。
妃候補。
どれも、書いていない。
彼女は、
制度の中で、
自分の立場を持っている。
誰かの命令でも、
誰かの保護でもなく。
(……そうか)
それ以上の感想は、浮かばなかった。
生きている。
働いている。
困っていない。
確認できた事実は、それだけだ。
会いに行こうとは、思わない。
行けば、
何かを壊す。
彼女の生活か、
自分の判断か。
どちらにしても、
余計なことになる。
書類を閉じる。
机の端に、外套が置かれている。
手は、伸ばさない。
触れれば、
また一日、
意味のない確認をしてしまう。
(……どこかで、生きていればいい)
その考えは、
願いでも、祈りでもなかった。
ただの、結論だ。
自分がいなくても、
成立する人生。
それを、
邪魔しない。
それだけで、
十分だと思えた。
外では、
夜警の足音が、規則正しく響いている。
王都は、回っている。
人は、
それぞれの場所で、生きている。
バルディンは、灯りを落とした。
明日の予定を、頭の中でなぞる。
視察。
報告。
会議。
そして――
出征の準備。
それは、
逃げでも、
覚悟でもない。
ただ、
自分に残された役割だった。
彼女が生きていると知った夜は、
驚くほど、静かに終わった。
何かを失った実感も、
何かを得た実感もない。
ただ一つ。
もう、自分が戻る場所はない。
それだけが、
はっきりと残っていた。




