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生きている条件は、すべて満たしている

朝は、等しく訪れた。


 執務室の窓から差し込む光は、昨日と同じ角度だった。

 書類の山も、未処理の案件も、何ひとつ変わらない。


 バルディンは、淡々と席につく。


 報告を聞き、指示を出す。

 声は低く、迷いもない。

 部下たちは安堵したように頷き、部屋を出ていく。


 ――問題はない。


 判断は早い。

 誤りもない。


 それなのに。


 書類に視線を落としたまま、

 ふと、時間の感覚が抜け落ちる。


 どれくらい、こうしていたのか。

 分からない。


 手は動いている。

 署名も済んでいる。


 ただ、手応えがない。


 昼を告げる声がして、

 食事が運ばれる。


 箸を取り、口に運ぶ。

 味は分かる。

 だが、良し悪しは浮かばない。


 残してもいいし、

 食べ切ってもいい。


 どちらでも、同じだった。


 午後も同様に過ぎていく。


 誰かが笑った。

 誰かが怒った。

 誰かが命乞いをした。


 すべて、同じ距離にある。


 遠くもなく、近くもない。


 夜になり、部屋が静まる。


 卓の端に、布が置かれているのが目に入った。


 外套。


 視線は、そこで止まる。


 思い出は、浮かばない。

 胸も、痛まない。


 ただ、処理されていない物として、そこにある。


 ――それでも。


 書類を取ろうとして、

 指先が、誤って布の端に触れた。


 厚み。

 冷えた感触。


 それだけ。


 引き寄せることも、

 確かめることも、

 持ち上げることもしない。


 だが、手はすぐに離れなかった。


 ほんの一拍。

 理由のない間。


 どうすべきか。

 しまうべきか。


 その判断だけが、なぜかできない。


 バルディンは、何もせずに視線を逸らした。


 灯りを落とす。


 夜は、静かだった。


 眠れるかどうかも、

 気にしない。


 横になり、目を閉じる。


 心臓は、規則正しく動いている。

 呼吸も、問題ない。


 生きている条件は、すべて満たしている。


 それでも。


 今日という一日が、

 生きた時間だったかどうかは、分からなかった。


 考えようとして、やめる。


 考えないことだけが、

 今の彼を保っていた。


 しばらく、そうして目を閉じていた。


 眠っているのかどうかも、分からない。

 夢を見た記憶もない。


 ただ、暗闇の中で、

 外套の感触だけが、なぜか残っていた。


 重さでも、温もりでもない。

 あれは、布の感触だ。


 それだけのはずなのに、

 意識の底で、何度も引っかかる。


(……どうでもいい)


 そう思って、

 その思考ごと、押し流す。


 意味を与えなければ、

 考える必要もなくなる。


 バルディンは、寝返りを打った。


 胸の奥にある空白は、

 広がりも、縮みもしない。


 ただ、そこにある。


 夜は、過ぎていく。

 明日も、同じように来るだろう。


 それでいい。


 そう思えるかどうかを、

 確かめる気力すら、今はなかった。

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