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始まるはずだった夜が、始まらなかった

 夜の執務室には、酒の匂いが満ちていた。


 卓の上には、空になった杯がいくつも並んでいる。

 呼べば、女も音楽も用意できる。

 だが、今はどれも必要なかった。


 ただ、酒だけがあればいい。


 バルディンは、無言で杯を満たし、一気に喉へ流し込んだ。


(……足りない)


 酔えない。

 頭が鈍らない。


 胸の奥の空白だけが、妙に鮮明だった。


「……くそ」


 小さく吐き捨てる。


 これまで、何度もこうして酒に逃げてきた。

 うまくいかなかった夜も、

 苛立ちを覚えた日も、

 欲しいものが手に入らなかったときも。


 酒は、いつも答えだった。


 なのに――


(……なんで、消えない)


 何を飲んでも、

 どれだけ流し込んでも、

 浮かんでくるのは、同じ姿。


 控えめに立つ背中。

 こちらを見ているようで、見ていなかった視線。

 欲しいと言えずに、黙って立っていた女。


「……俺が、手放した」


 自分で決めた。

 自分で、終わらせた。


 それなのに。


 杯を置く手が、わずかに震える。


(……違う)


 欲しかったのは、従う女だった。

 役に立つ存在だった。

 自分だけを見て、縋ってくる女だった。


 ――はずだ。


 なのに、思い出すのは、

 自分を見ていなかった目ばかりだ。


「……笑えるな」


 苦く、口元が歪む。


 見られていないことに、怒っていた。

 見られなくなったことに、安堵した。


 それなのに今は、

 見られていないことが、こんなにも苦しい。


 バルディンは、卓に肘をつき、額を押さえた。


 酒の熱が、喉を焼く。

 それでも、胸の奥は冷えたままだ。


(……治したのに)


 一瞬、考えてしまって、歯を食いしばる。


 彼女は、命を削って治した。

 自分の身体も、

 王女の足も。


 それなのに、

 その身体で酒を飲んでいる。


(……馬鹿みたいだ)


 だが、やめられない。


 酒をやめれば、

 考えてしまう。


 彼女がここにいない理由。

 もう、戻らないという事実。

 それでも、自分の中に残っている感情。


 それに名前をつけてしまったら――

 きっと、立っていられなくなる。


 杯を、もう一度空ける。


 酔え。

 何も考えるな。

 元に戻れ。


 女に囲まれて、

 欲されて、

 選ぶ側でいればいい。


 ――それが、俺だろう。


 そう言い聞かせる。


 だが。


 どれだけ酒を飲んでも、

 どれだけ時間が過ぎても、


 胸の奥の空白は、

 埋まることなく、ただ静かに広がっていった。


 バルディンは、

 誰もいない執務室で、

 もう一杯、酒を注いだ。


 それが、

 初めて味わう「失った夜」だと――

 まだ、認められないまま。


 何も考えたくない。

 それだけだった。


 女の息が、首筋にかかった。

 湿った温度。微かな震え。

 唇が、触れそうな距離で止まる。


 布越しに伝わる体温が、思考より先に反応を引き出す。

 腹の奥が、重く、鈍く熱を持った。


 ――身体は、覚えている。


 引き寄せればいい。

 いつも通り、そうすれば終わる。


 だが、指先が動かない。

 触れたい衝動はあるのに、

 欲しい、という言葉に変わらない。


 女の手が、彼の胸元で一瞬止まり、

 ためらうように離れた。


 熱は残ったまま、行き場を失う。

 満たされないまま、静かに冷えていく。


 バルディンは、息を整えもせず、

 ただ立っていた。


 始まるはずだった夜が、

 始まらなかった事実だけが、

 はっきりと残った。


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