選ばれなくなった夜、身体だけが覚えている
夜は、静かだった。
宿の部屋には、
小さな灯りと、
外から聞こえる微かな物音だけ。
誰かの足音。
遠くの話し声。
風に揺れる看板の音。
王宮の夜より、
ずっと雑多で、
ずっと現実的だ。
エリナは、寝台の端に腰掛け、
しばらく、その音を聞いていた。
(……静か)
違う。
音は、ある。
ただ――
“自分を見ている気配”が、ない。
それだけだ。
誰かの期待。
視線。
役割。
それらが、
今夜は、どこにもない。
灯りを落とす。
寝台に横になる。
天井は低く、
装飾もない。
けれど、
息が詰まらない。
呼吸をひとつ。
ゆっくり。
もうひとつ。
胸が、自然に上下する。
(……ちゃんと、息してる)
それに気づいて、
少しだけ、驚いた。
今まで、
こんなふうに眠る前の時間を、
感じたことがなかった。
疲れているのに、
眠れない夜。
考え事をしているわけでもないのに、
目を閉じるのが怖い夜。
――誰かに、
「まだ役に立てるか」を
無意識に問い続けていた夜。
今日は、
それがない。
(……何も、求められてない)
胸の奥に、
少しだけ、不安が生まれる。
役に立たない自分。
選ばれない自分。
呼ばれない自分。
それでも。
今夜は、
それを埋めようとしなくていい。
(……いいんだ)
理由はない。
許可もいらない。
ただ、
何もしていない時間が、
ここにある。
窓の外を見る。
月は、半分だけ見えていた。
雲に隠れたり、
また現れたり。
完全じゃない光。
それでも、
夜を照らしている。
(……私も)
そう思って、
自分で、少し可笑しくなる。
誰かのためじゃなく。
役割のためでもなく。
ただ、
ここにいる。
それだけで、
消えない存在。
胸の奥が、
ほんの少しだけ、温かくなる。
思い出が浮かぶ。
城の廊下。
低い声。
視線。
胸が、きゅっとする。
――でも。
(……戻りたい、とは思わない)
それが、
今の正直な気持ちだった。
――それでも。
不意に、
胸の奥が、きゅっと疼いた。
理由は、分かっている。
『欲しいなら、口にしろ』
低く落とされた声。
逃げ場のない距離。
あの夜の、静かな圧。
思い出した瞬間、
身体が、先に反応してしまった。
(……やめて)
そう思うのに、
熱が、じわりと広がる。
恥ずかしさと一緒に、
忘れたはずの感覚が、輪郭を持って蘇る。
――言われたこと。
受け取ったこと。
あの一言だけが、
なぜか、消えてくれない。
エリナは、
そっと身を丸めた。
灯りは、もう落ちている。
誰も、見ていない。
静かな部屋で、
呼吸だけが、少しだけ乱れた。
(……忘れたいのに)
快感だけが、
身体の奥に残っていることが、
ひどく、怖かった。
寂しさは、ある。
痛みも、まだ残っている。
それでも。
今夜の静けさは、
奪われたものじゃない。
選ばなかったもの。
エリナは、
目を閉じる。
明日のことは、
考えない。
何者になるかも、
決めない。
今日は、
ただ眠る。
誰の役にも立たない、
誰にも見られていない、
自分の夜を。
その静けさを、
初めて――
怖がらずに、受け取った。




