手放した女は、もう二度と同じ場所には来なかった
夜の王都は、相変わらず騒がしかった。
酒の匂い。
遠くで響く笑い声。
石畳を打つ足音。
それらを背に、バルディンは路地へ足を踏み入れる。
――一度、来た場所だ。
血の跡。
湿った壁。
あの夜、身体を預けるように倒れていた場所。
(……ここだ)
間違いない。
ここで、
何かが始まった。
だから、
ここに来れば――
何かが起きる気がした。
壁に背を預ける。
視線を上げる。
暗い。
狭い。
人の気配はない。
(……遅いな)
誰を待っているのか、
自分でも分からないまま、そう思った。
足音がしないかと、耳を澄ます。
影が揺れないかと、視線を巡らす。
――何もない。
通り過ぎるのは、
酔った男の笑い声だけ。
(……来ない、か)
胸の奥で、
小さく何かが落ちた。
苛立ちでもない。
怒りでもない。
ただ、
拍子抜けするような感覚。
(……当然だ)
ここに来る理由は、もうない。
助けを求める声もない。
倒れている人間もいない。
手当てする理由も、
引き止める理由も。
――彼女は、もう来ない。
そう分かっているのに、
なぜか、足が動かない。
(……何を期待している)
自嘲が浮かぶ。
自分で手放した。
自分で、終わらせた。
それなのに。
あのときの背中が、
頭から離れない。
振り向かなかったこと。
縋らなかったこと。
何も言わずに、去ったこと。
(……あいつは)
ここで、
俺を待つような女じゃなかった。
そうだ。
最初から。
声をかけたのも、
手当てしたのも、
命じられたからじゃない。
――選んだからだ。
バルディンは、
ゆっくりと息を吐いた。
路地は、何も答えない。
ただ、
暗く、静かにそこにある。
(……何も、起きない)
それが、
これほどはっきりとした現実だとは思わなかった。
ここには、
もう戻れない。
ここで、
何かを取り戻すこともない。
そう理解した瞬間、
胸の奥で、確かな音がした。
――遅すぎた。
初めて、
その言葉が、はっきり浮かぶ。
バルディンは、踵を返す。
振り返らない。
ここには、
もう何もない。
ただ、
何も起きなかった夜だけが、
静かに、そこに残っていた。




