兄はもう戻れない
兄の様子が、少しずつおかしくなっていることに、
ルシアンは、ずっと気づいていた。
急に荒れるわけでもない。
感情を露わにするわけでもない。
むしろ――
以前より、静かだった。
執務もこなす。
会議にも出る。
人前では、何一つ変わらない。
それなのに。
(……軽い)
兄の言葉は、
どれも正しく、
どれも必要で、
どれも――どこか、空いている。
視線が、人を通り抜けている。
誰かと話していても、
そこに“居ていない”。
(……いない、な)
それが、最初に浮かんだ感想だった。
ある夜。
執務室へ用があり、立ち寄ったとき。
兄は、窓辺に立っていた。
灯りは落ちていて、
背中だけが、闇に浮かんでいる。
「兄上?」
声をかけると、
ゆっくりと振り向いた。
「……どうした」
声は、いつも通り。
けれど。
目が、違った。
探している。
――それも、ここにはないものを。
(……あ)
その瞬間、
ルシアンの胸に、嫌な予感が落ちる。
この目は、
手に入れたいときの目じゃない。
失ってから、
遅れて気づいた人間の目だ。
「……何か、お探しですか」
そう聞いてしまった自分を、
内心で叱る。
答えなど、
聞くべきではない。
兄は、一瞬だけ黙った。
ほんの一瞬。
だが、確かに。
何かを言いかけて、
やめた間だった。
「……いや」
それだけ答え、
再び窓の外へ視線を戻す。
王都の灯り。
遠くの夜。
そこに、
兄の欲しいものはない。
(……遅い)
その言葉が、
自然と浮かんだ。
もう、
呼び戻せない。
兄は、
“欲しかったもの”と
“手に入れたもの”が
違っていたことに、
ようやく気づいたのだ。
そして。
気づいたときには、
もう、相手はいない。
(……兄上は)
本気だったのだろうか。
恋だったのか。
執着だったのか。
支配だったのか。
分からない。
けれど、
確かなことが一つある。
兄は、
“失って初めて分かる人間”だ。
そして、
それを認めるには、
あまりにも時間がかかる。
ルシアンは、
それ以上、何も言わなかった。
言っても、
届かない。
今の兄には、
誰の言葉も。
扉を出るとき、
ふと、思う。
(……戻れないな)
兄は、もう。
あの場所には戻れない。
そして、
彼女も――
きっと、振り返らない。
夜は静かで、
王宮は何も変わらない。
変わったのは、
ただ一人。
自分だけを見ていると思っていた世界に、
独りで取り残された、
兄の心だけだった。




