感情に名前をつけるな
夜更けの執務室は、静かだった。
灯りは最小限。
書類も、酒も、すべて揃っている。
――何も、不足はない。
それなのに。
バルディンは、机に肘をついたまま動けずにいた。
(……何をしている)
理由は分かっている。
分かっているから、腹立たしい。
女を集めた。
酒も飲んだ。
望めば、いくらでも応じる者はいる。
以前と同じ。
何も変わっていないはずだ。
なのに。
どの笑顔も、薄い。
どの声も、耳に残らない。
視線を向けられても、
その奥に“自分しかいない”ことが、はっきり分かる。
(……違う)
無意識に、そう思った瞬間、
胸の奥で、何かが引っかかった。
――では、何が違う?
問いかけた途端、
脳裏に浮かんだのは、ひとつの姿だった。
控えめに立つ背中。
欲しいと言えずに、沈黙を選ぶ癖。
こちらを見ているのに、見すぎない視線。
(……やめろ)
思考を、乱暴に切る。
もう城にはいない。
自分で手放した。
思い出す理由など、どこにもない。
それでも。
(……俺は)
ここまで考えて、
初めて、違和感の正体が形を持ちかけた。
――俺は、あいつに何を求めていた?
役に立つことか。
従うことか。
命令を聞くことか。
……違う。
治癒能力?
借金?
妃候補?
どれも、後付けだ。
では、本当は――
(……俺だけを)
そこまで浮かんだ瞬間、
バルディンは、ぎゅっと歯を噛みしめた。
(……馬鹿な)
違う。
そんなはずがない。
欲しかったのは、
自分を見てくれる女だ。
縋って、
依存して、
選ばれたいと願う女。
それで、満たされていたはずだ。
(……なのに)
なぜ、今は息苦しい。
なぜ、
“俺を見なくなった”あの女の顔だけが、
こんなにも、はっきり浮かぶ。
(……感情に、名前をつけるな)
それは、危険だ。
名を与えた瞬間、
取り返しがつかなくなる。
欲でも、支配でも、所有でもないもの。
それを認めれば――
(……俺は)
失った側になる。
バルディンは、椅子から立ち上がり、
窓辺へ歩いた。
夜の王都が、遠くに広がっている。
あの女は、もうこの中にいない。
それだけのことだ。
(……考えるな)
バルディンは、目を閉じる。
その瞬間、
「……失礼いたします」
と一礼して背を向けた女の姿が、ふと脳裏をよぎり、
胸の奥が、わずかに疼いた。
感情に、名前をつけるな。
欲望の枠に戻せ。
管理できるものに戻せ。
そうでなければ、
これまでのすべてが、意味を失う。
バルディンは、深く息を吐いた。
(……違う)
あれは、違う。
――そう、結論づけて。
まだ、
自分が何を失ったのかを、
理解しないまま。




