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何も失っていないはずなのに

 夜の執務室は、静かだった。


 杯は空になっている。

 呼べば女はいくらでも来る。

 だが、今は呼ばなかった。


 椅子にもたれ、天井を仰ぐ。


(……静かだな)


 以前は、この静けさが心地よかった。

 誰もいない時間。

 誰にも縋られない時間。


 自分だけの、空間。


 なのに――


(……こんなに、広かったか)


 部屋が、妙に遠い。

 机も、壁も、すべてが一歩ずつ離れているような感覚。


 胸の奥に、何かが引っかかっている。


 重いわけでもない。

 痛むわけでもない。


 ただ、空いている。


(……何を、失った)


 そう思って、

 自分で眉をひそめた。


 失った?

 何も失っていない。


 治癒も、成果も、立場も。

 すべて、手に入れている。


 女もいる。

 求められている。


 それなのに。


(……違う)


 胸の奥で、低い声がする。


 欲しかったのは、

 こんな視線だったか。


 選ばれたい目。

 縋る声。

 こちらの言葉を待つ沈黙。


 ――それらは、今もある。


 なのに、

 どれにも、手応えがない。


 ふと、思い出す。


 何も言わずに立っていた背中。

 必要以上に近づかず、

 それでも、逃げなかった女。


 視線を向けていないくせに、

 確かに、そこにいた存在。


(……馬鹿らしい)


 思考を切ろうとする。


 もう、城にはいない。

 自分で、手放した。


 それだけのことだ。


 そう結論づけようとして――


 胸の奥で、

 何かが、言葉になりかけた。


(俺は……)


 一瞬、

 喉が、詰まる。


 続きを考えれば、

 何かに名前がついてしまう気がした。


 それは、

 今まで積み上げてきたものを、

 根こそぎ崩す言葉だ。


(……考えるな)


 バルディンは、目を閉じる。


 欲しかったのは、

 自分だけを見てくれる女だった。


 ――はずだ。


 だが、

 思い浮かぶのは、


 自分を見ていない目。

 それでも、離れなかった背中。


 そこにあった、

 確かな――


(……やめろ)


 言葉になる前に、拒否する。


 これは、違う。

 認める必要はない。


 ただの、違和感だ。

 一時的なものだ。


 椅子から立ち上がり、

 窓辺に歩み寄る。


 夜の王都が、静かに広がっている。


(……戻れ)


 自分に言い聞かせる。


 元の場所へ。

 元のやり方へ。


 女に囲まれ、

 欲され、

 選ぶ側でいる場所へ。


 ――それで、満たされていたはずだ。


 そう、思った。


 思った、はずだった。


 だが。


 胸の奥の空白は、

 名前を拒んだまま、

 静かに、そこに残り続けていた。


 ふと、

 机の上の書類に手が伸びた。


 次の瞬間、

 紙束が床に散らばっていた。

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