何も言えない距離
兄が、変わった。
その事実を、ルシアンはずっと認めずにいた。
仕事をこなしている。
命令も的確だ。
表情も、いつも通り冷静で、感情を表に出さない。
――外から見れば、何一つ変わっていない。
それでも。
執務室を通りかかったとき。
酒の席に同席したとき。
ふとした沈黙の合間に。
ルシアンは、違和感を覚え続けていた。
(……兄上は)
“何も求めていない顔”をしている。
欲望がないわけではない。
女も、酒も、地位も、すべて手に入れている。
それなのに。
目が、どこも見ていない。
以前の兄は違った。
人を見る目をしていた。
値踏みする目。
期待する目。
支配する目。
どれであっても、
確かに“相手を見て”いた。
だが今は。
(……空白だ)
女に囲まれても。
称賛されても。
笑い声が上がっても。
兄の視線は、
いつも、少しだけ遅れて戻ってくる。
まるで、
そこにいない誰かを探していたかのように。
その“誰か”の輪郭が、
頭に浮かんだ瞬間――
ルシアンは、思考を止めた。
(……考えるな)
名を与えれば、
事実になってしまう。
兄が、誰かを失ったのだと。
それが“取り返しのつかないもの”だったのだと。
そんなこと、
あっていいはずがない。
兄は、奪う側だ。
捨てる側だ。
選ぶ側であって、選ばれない存在ではない。
――そう、思っていた。
だから、何も言えない。
問いかけることも。
忠告することも。
「失った」と認めさせることも。
できない。
もし口にしてしまえば、
兄は、それを受け取ってしまうだろう。
静かに。
何も言わずに。
深く、壊れながら。
(……兄上)
助けたいと思う。
止めたいとも思う。
けれど。
あの人は、
誰かに救われることを、
一度も選んできたことがない。
ましてや――
弟に、心を明け渡すはずもない。
だから、ルシアンは距離を保つ。
一歩、踏み出せば届く距離で、
踏み出さない。
言葉が、喉まで上がっても、
飲み込む。
今の兄に必要なのは、
慰めでも、忠告でもない。
――“自分で気づくこと”だけだ。
その日が来るまで、
自分は、見ているしかない。
壊れていく背中を。
満たされない沈黙を。
誰にも触れさせない孤独を。
(……あの方が)
初めて、
何かを欲しがった相手がいたのだとしたら。
それを失った今、
誰にも触れさせないのは――
当然なのかもしれない。
ルシアンは、回廊の影に立ったまま、
兄の背中を見送った。
声をかけることもなく。
引き止めることもなく。
ただ、
**“何も言えない距離”**に立ち尽くしながら。
それが、
弟として選べる、
唯一の立ち位置だと知っていたから。




