空っぽと、空白
城門を出た瞬間、
エリナは、自分が思っていたよりも――軽いことに気づいた。
荷物は少ない。
小さな鞄ひとつ。
妃候補として与えられていた部屋も、
身分も、
役割も、
すべて、城の内側に置いてきた。
(……もう、何もない)
そう思ったはずなのに。
胸は、不思議なほど静かだった。
悲しくないわけじゃない。
寂しくないわけでもない。
けれど、
泣き崩れるほどの感情は、どこにもなかった。
歩き出す。
石畳の感触が、靴越しに伝わる。
城の中より、少しだけ荒れている道。
それが、現実だ。
(……自由だ)
誰にも呼び止められない。
視線を気にする必要もない。
役に立たなければ、存在してはいけない――
そんな場所から、離れただけ。
それなのに、
胸の奥が、すうっと静まっていく。
思い返そうとすれば、
殿下の声も、
視線も、
あの執務室の静けさも、
すぐに浮かぶ。
けれど。
(……今は、考えなくていい)
もう、
見られるために立つ必要はない。
選ばれるために、
削れる必要もない。
何者でもない。
役割もない。
――空っぽだ。
でも。
空っぽだからこそ、
何を入れてもいい。
エリナは、立ち止まり、
一度だけ、城を振り返った。
高い壁。
閉じられた門。
あの中にいた自分は、
確かに、必死だった。
必要とされるために。
価値があると思われるために。
それが、
幸せだと信じて。
(……違ったのかな)
答えは、まだ出ない。
でも。
少なくとも今は、
誰の命令も、
誰の期待も、
背負っていない。
それだけで、
息がしやすい。
エリナは、
ゆっくりと前を向いた。
行き先は決めていない。
何をするかも、決めていない。
それでも。
足は、自然と動いた。
――空っぽで、
自由で。
そして、まだ生きている。
それだけは、
はっきりと、分かっていた。
ーー
執務室に戻ると、
すべては、いつも通りだった。
机の上の書類。
整えられた椅子。
静かな空気。
余計なものは、何ひとつない。
(……静かだな)
そう思ったが、
それは以前から変わらない。
人払いは済んでいる。
集中するには、最適な環境だ。
バルディンは椅子に腰を下ろし、
書類へ視線を落とした。
決裁。
署名。
指示。
手は、止まらない。
(……問題はない)
王女の足は回復した。
治癒能力の対価として、
借金も、妃候補の立場も、すべて整理した。
取引としては、完璧だ。
無駄もない。
感情を挟む余地もない。
(……これでいい)
そう結論づけたはずだった。
それなのに。
紙をめくる音が、
やけに大きく響く。
ペンを置いたときの音が、
耳に残る。
(……うるさいな)
無意識に眉をひそめる。
集中できないわけじゃない。
仕事は進んでいる。
なのに、
何かが、足りない。
(……視線、か)
ふと、そんな言葉が浮かんだ。
以前は、
この部屋に入る女がいた。
必要以上にこちらを見て、
一言一言に反応して、
表情を探るように立っていた女。
――エリナ。
(……いや)
すぐに、その名を打ち消す。
もう、関係ない。
役割は終わった。
必要なものは、すべて得た。
それだけのことだ。
立ち上がり、
窓辺へ向かう。
城の中庭が見下ろせる。
人の動き。
規則正しい日常。
誰も、困っていない。
滞ってもいない。
(……正常だ)
なのに。
視界のどこにも、
探す理由のない影を探している自分に気づく。
気づいた瞬間、
バルディンは、わずかに舌打ちした。
(……馬鹿げている)
俺は、
「俺を見ない女」を手放しただけだ。
俺の世界から、
不要になった存在を外した。
それだけ。
満たされない理由なんて、ない。
それでも。
執務室に戻ったときの静けさが、
先ほどより、少し重い。
机に戻り、
再び書類を取る。
文字は、読める。
意味も、理解できる。
だが。
どこかで、
誰にも見られていない自分を、
初めて意識してしまった。
(……俺は)
一瞬だけ、
考えかけて、やめる。
答えを出すには、まだ早い。
今はただ、
すべてが予定通りで、
何ひとつ失っていない。
――そう、信じている。
バルディンは、
何事もなかったように仕事を続けた。
この違和感に、
まだ、名前をつけるつもりはなかった。




