表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

80/92

空っぽと、空白

 城門を出た瞬間、

 エリナは、自分が思っていたよりも――軽いことに気づいた。


 荷物は少ない。

 小さな鞄ひとつ。


 妃候補として与えられていた部屋も、

 身分も、

 役割も、

 すべて、城の内側に置いてきた。


(……もう、何もない)


 そう思ったはずなのに。


 胸は、不思議なほど静かだった。


 悲しくないわけじゃない。

 寂しくないわけでもない。


 けれど、

 泣き崩れるほどの感情は、どこにもなかった。


 歩き出す。


 石畳の感触が、靴越しに伝わる。

 城の中より、少しだけ荒れている道。


 それが、現実だ。


(……自由だ)


 誰にも呼び止められない。

 視線を気にする必要もない。


 役に立たなければ、存在してはいけない――

 そんな場所から、離れただけ。


 それなのに、

 胸の奥が、すうっと静まっていく。


 思い返そうとすれば、

 殿下の声も、

 視線も、

 あの執務室の静けさも、

 すぐに浮かぶ。


 けれど。


(……今は、考えなくていい)


 もう、

 見られるために立つ必要はない。


 選ばれるために、

 削れる必要もない。


 何者でもない。

 役割もない。


 ――空っぽだ。


 でも。


 空っぽだからこそ、

 何を入れてもいい。


 エリナは、立ち止まり、

 一度だけ、城を振り返った。


 高い壁。

 閉じられた門。


 あの中にいた自分は、

 確かに、必死だった。


 必要とされるために。

 価値があると思われるために。


 それが、

 幸せだと信じて。


(……違ったのかな)


 答えは、まだ出ない。


 でも。


 少なくとも今は、

 誰の命令も、

 誰の期待も、

 背負っていない。


 それだけで、

 息がしやすい。


 エリナは、

 ゆっくりと前を向いた。


 行き先は決めていない。

 何をするかも、決めていない。


 それでも。


 足は、自然と動いた。


 ――空っぽで、

 自由で。


 そして、まだ生きている。


 それだけは、

 はっきりと、分かっていた。


ーー


 執務室に戻ると、

 すべては、いつも通りだった。


 机の上の書類。

 整えられた椅子。

 静かな空気。


 余計なものは、何ひとつない。


(……静かだな)


 そう思ったが、

 それは以前から変わらない。


 人払いは済んでいる。

 集中するには、最適な環境だ。


 バルディンは椅子に腰を下ろし、

 書類へ視線を落とした。


 決裁。

 署名。

 指示。


 手は、止まらない。


(……問題はない)


 王女の足は回復した。

 治癒能力の対価として、

 借金も、妃候補の立場も、すべて整理した。


 取引としては、完璧だ。


 無駄もない。

 感情を挟む余地もない。


(……これでいい)


 そう結論づけたはずだった。


 それなのに。


 紙をめくる音が、

 やけに大きく響く。


 ペンを置いたときの音が、

 耳に残る。


(……うるさいな)


 無意識に眉をひそめる。


 集中できないわけじゃない。

 仕事は進んでいる。


 なのに、

 何かが、足りない。


(……視線、か)


 ふと、そんな言葉が浮かんだ。


 以前は、

 この部屋に入る女がいた。


 必要以上にこちらを見て、

 一言一言に反応して、

 表情を探るように立っていた女。


 ――エリナ。


(……いや)


 すぐに、その名を打ち消す。


 もう、関係ない。


 役割は終わった。

 必要なものは、すべて得た。


 それだけのことだ。


 立ち上がり、

 窓辺へ向かう。


 城の中庭が見下ろせる。

 人の動き。

 規則正しい日常。


 誰も、困っていない。

 滞ってもいない。


(……正常だ)


 なのに。


 視界のどこにも、

 探す理由のない影を探している自分に気づく。


 気づいた瞬間、

 バルディンは、わずかに舌打ちした。


(……馬鹿げている)


 俺は、

 「俺を見ない女」を手放しただけだ。


 俺の世界から、

 不要になった存在を外した。


 それだけ。


 満たされない理由なんて、ない。


 それでも。


 執務室に戻ったときの静けさが、

 先ほどより、少し重い。


 机に戻り、

 再び書類を取る。


 文字は、読める。

 意味も、理解できる。


 だが。


 どこかで、

 誰にも見られていない自分を、

 初めて意識してしまった。


(……俺は)


 一瞬だけ、

 考えかけて、やめる。


 答えを出すには、まだ早い。


 今はただ、

 すべてが予定通りで、

 何ひとつ失っていない。


 ――そう、信じている。


 バルディンは、

 何事もなかったように仕事を続けた。


 この違和感に、

 まだ、名前をつけるつもりはなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ