あれは俺のものだ
ルシアンは、エリナの部屋を出ると同時に歩く速度を早めた。
夕食後の王宮は静まり返っていたが、胸中はざわついている。
(兄上……おそらく、まだ執務室にいるはず)
片時も迷わず廊下を抜け、重厚な扉の前に立つ。
コン、コン。
「兄上。お話があります」
ノックと同時に扉を開くと、バルディンは書類を片手に、まるで待っていたかのように視線を上げた。
「……用件を述べろ」
兄の目に宿る冷たい光に、ルシアンの背筋が自然と伸びる。
「エリナ様の件です」
「ふうん」
バルディンは退屈そうに椅子を回し、机に肘をつく。
「泣いてたんだろ、あの女」
「“あの女”呼ばわりはやめてください。
彼女は何も悪いことをしていません。
噂も誤解です。外出禁止など――」
「誤解?」
バルディンは鼻で笑った。
「妃候補のくせに、夜に男と歩いていたんだぞ。
――お仕置きが必要だろう」
「兄上!」
ルシアンの声がわずかに震える。
バルディンはつまらなそうに書類を閉じた。
「そんな顔すんなよ。別に深い意味はない。
――あれは俺専用の玩具で、俺の“暇つぶし”だ」
「っ、玩具……?」
「“純粋な女”ってのは扱いやすい。
動揺して、怯えて、揺れていく様子を見るのが……一番面白いんだよ」
淡々とした声。
けれど、その奥にある黒い愉悦を感じ取り、ルシアンは喉が強張る。
「兄上、本当に……それだけの理由で、あんな優しい方を――」
「ハハッ」
バルディンが笑った。
「お前、エリナが欲しくなったのか?」
「ち、違います!」
即座に否定したものの、頬が熱くなるのを止められない。
その反応を見て、バルディンの瞳が愉悦に細まる。
「お前、本当に単純だな。
だが――手ぇ出すなよ。
あれは俺のモンだ」
低く、爪を立てるような声だった。
ルシアンは拳を握りしめる。
「……兄上が、あの方を苦しめるためだけに動くなら……僕は、黙っていられません」
「へえ?」
バルディンの笑みが深くなる。
「なら、お前はどうするっていうんだ?」
「僕が、彼女を守ります。彼女は優しい方です。
泣かせて遊ぶなんて……間違っています」
「間違ってる?」
バルディンが立ち上がる。
「お前は何も分かってない。
――壊れる寸前に優しくしてやれば、もっと俺を見るようになる。
離れられないくらいにな」
その危険な声音に、ルシアンは言葉を失った。
「兄上……」
「説教は終わりか? なら帰れ。
お前が口を挟んでも、この“遊び”は終わらない」
つき放すような声。
それでもルシアンは、深く頭を下げた。
「……もう、これ以上彼女を苦しめないでください。
兄上が本当に誰かを想える日が来たとき……必ず後悔――」
「要らない忠告だ」
バルディンが冷たく言い放つ。
ルシアンは唇を噛みしめ、その場を後にした。
扉が閉まる音を聞きながら、
バルディンはひとり、薄く笑う。
「純粋な女ほど……壊したくなる」
その呟きは、誰にも届かなかった。




