「手間をかけたな」と言われただけだった
医務室を出た瞬間、
エリナの足は、わずかに震えていた。
胸の奥が、冷たい。
(……断られた)
治せないわけじゃない。
治したくない――そう言われた。
あの王女の目は、怯えていた。
けれど同時に、どこか必死だった。
――この怪我があるから、殿下は私を気にしてくださる。
――これがなくなったら、私は見られなくなる。
口にされたのは、丁寧な拒否だった。
けれど、その奥にある本音を、エリナは感じ取ってしまった。
(……そんな)
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
怪我を治さない理由が、
“愛されたいから”だなんて。
エリナは、無意識に自分の指を握りしめた。
(……私と、同じ)
思ってはいけないことが、浮かんでしまう。
必要とされたい。
目を向けてほしい。
役に立っていないと、不安になる。
その気持ちを、
エリナは、誰よりも知っていた。
(……でも)
これは、自分の感情じゃない。
王女の選択だ。
そう言い聞かせても、
足取りは重く、頭の中は静かに混乱していた。
⸻
バルディンの執務室の前に立ったとき、
エリナは、一度だけ深く息を吸った。
(……ちゃんと、伝えなきゃ)
扉を叩く。
「入れ」
低く、落ち着いた声。
中に入ると、
バルディンは書類から目を上げもしなかった。
「……どうだった」
それだけ。
結果だけを求める声音。
エリナは、一瞬、言葉に迷った。
――本音まで、言うべきか。
――それとも、事実だけを。
喉が、ひくりと鳴る。
「……王女殿下は」
一拍置いてから、続ける。
「治癒を……お断りになりました」
ペンが、止まる。
バルディンは、ようやく顔を上げた。
「理由は?」
短い問い。
逃げ場は、ない。
エリナは、視線を落としたまま答える。
「……今の怪我があるからこそ、
殿下が気にかけてくださると……」
言葉を選びながら、
慎重に、慎重に。
「治してしまったら、
ご自身の存在が、薄れてしまうのではないかと……」
沈黙が落ちる。
重い。
張りつめた、空気。
バルディンは、しばらく何も言わなかった。
やがて。
「……そうか」
低く、抑えた声。
感情は、読み取れない。
怒っているのか。
呆れているのか。
それとも――計算しているのか。
エリナは、胸の奥がざわつくのを感じた。
(……私、余計なことを言った?)
不安が、遅れて押し寄せる。
バルディンは、視線を外し、再び書類に目を戻した。
「治癒の件は、ひとまずいい」
一拍置いて、付け足すように言った。
「……手間をかけたな」
労わるようにも、
感謝するようにも聞こえる言葉。
けれど、その声に、
感情の温度はなかった。
それだけ。
命令でもなく、結論でもない。
ただの、保留。
「下がれ」
「……はい」
頭を下げ、部屋を出る。
扉が閉まった瞬間、
エリナは、ようやく息を吐いた。
(……どうなるの)
断られた。
報告した。
それだけなのに。
胸の奥に、
嫌な予感だけが、静かに残っていた。
――これは、終わりじゃない。
むしろ。
何かが、
ゆっくりと、悪い方向へ動き始めた。
エリナはまだ知らない。
この“拒否”が、
次に下される命令を、
より残酷なものにすることを。




