歯車は静かに回る
それから、数日が過ぎた。
王宮の時間は、いつもと同じように流れているはずだった。
朝は鐘が鳴り、昼には回廊が騒がしくなり、夜になれば静けさが戻る。
――何も、変わっていない。
そう思おうとしていた。
けれど。
エリナは、朝の厨房で火を入れながら、ふと手を止めた。
(……あれ?)
鍋から立ち上る香りが、いつもより穏やかだった。
薬草の配合は、変えていない。
分量も、順番も、間違えていない。
それなのに。
角がない。
刺激がない。
すっと、体に馴染む匂い。
(……前から、こうだった?)
首を傾げながらも、エリナは何も言わず、鍋を下ろした。
その日の夕方。
廊下の先で、医務官の声が聞こえた。
「……数値が、落ち着いていますね」
「先日までより、ずっと」
返事は、聞き慣れた低い声。
「そうか」
それだけ。
感情の動かない、いつもの声音。
エリナは、足を止めた。
(……数値?)
何の話かは、分からない。
分からないはずなのに、胸の奥が、ひくりと鳴った。
その場を通り過ぎるとき、
無意識に、扉から距離を取ってしまう。
(……考えすぎ)
自分にそう言い聞かせて、歩き出す。
その夜。
王宮の一角で、久しぶりに酒の匂いを嗅いだ。
以前なら、もっと強く、重たく漂っていたはずの香り。
けれど今は、ほんの微かだった。
「……殿下、今日はもう――」
「このくらいでいい」
短いやり取り。
その言葉に、エリナは足を止めた。
(……え?)
“もう少し”ではなく、
“このくらい”。
それは、今まで聞いたことのない言い方だった。
胸の奥が、ざわつく。
(……どうして)
自分は、何もしていない。
お願いを言っただけ。
部屋にいただけ。
料理を作っただけ。
――治した覚えなんて、ない。
なのに。
翌日。
バルディンは、朝の回廊を歩いていた。
顔色が、少しだけ違う。
目の下の影が、薄い。
歩調も、以前より安定している。
妃候補の一人が、驚いたように声を上げた。
「殿下、今日はお顔色が――」
「……そう見えるか?」
問い返す声は、淡々としている。
「なら、問題ないな」
それだけ言って、歩き去る背中。
エリナは、柱の影から、その様子を見ていた。
(……変、だ)
確実に、何かが変わっている。
自分の体調は、逆だった。
食事が、喉を通らない。
立ち上がると、視界が揺れる。
夜、眠りが浅い。
(……疲れてるだけ)
そう思おうとするたび、
胸の奥で、別の声が囁く。
――本当に?
図書館で本を開いても、文字が頭に入らない。
厨房で包丁を握ると、指先が少し震える。
それでも。
エリナは、何も言わなかった。
誰にも。
王子にも。
医務官にも。
(……してない)
何もしていない。
してはいけないことは、していない。
そう、何度も心の中で繰り返す。
けれど。
その夜。
私室の前を通り過ぎたとき、
ふと、扉の向こうから聞こえた声に、足が止まった。
「……酒は、もう要らない」
低く、はっきりした声。
それは、命令ではなく、
自分に言い聞かせるような響きだった。
エリナの喉が、きゅっと鳴る。
(……何も、してないのに)
そう思えば思うほど、
胸の奥が、冷たくなっていく。
もし。
もし、何かが変わったのだとしたら。
それは、
“してしまったから”ではなく――
“してしまったことに、気づかれていないだけ”なのではないか。
エリナは、そっと手を握りしめた。
何もしていない。
だから、言えない。
だから、戻れない。
静かに。
確実に。
歯車は、もう回り始めていた。
――誰にも告げられないまま。




