この人を失いたくない
その夜。
エリナは、どうしても眠れなかった。
灯りを落とした部屋。
横になっても、目を閉じても、
胸の奥が、ざわついたまま静まらない。
(……三人)
昼間、呼ばれた名前。
残ったという事実。
安心したはずなのに、
それ以上に、焦りが広がっていた。
このままで、本当にいいのだろうか。
何も言わず、何も差し出さず、
ただ待っていて――選ばれるのだろうか。
寝台から身を起こし、
窓の外を見る。
王宮の灯りは、まだ消えていない。
(……少し、歩こう)
理由はそれだけだった。
誰かに会うつもりも、
何かを言うつもりもなかった。
ただ、この胸のざわめきを、
鎮めたかっただけ。
――気づけば。
エリナは、バルディンの私室がある回廊に立っていた。
(……あ)
そこで初めて、
自分がどこまで来てしまったのかを自覚する。
(だめ……)
呼ばれていない。
許されてもいない。
今夜は、
「お願い」を言いに来たわけでもない。
引き返そうとして、
けれど――
扉の向こうから、低い声が聞こえた。
「……だから、申し上げているのです」
医務官の声だ。
思わず、足が止まる。
「肝臓の数値が、これ以上悪化すれば」
「酒は、今すぐ止めていただかなければなりません」
一瞬、耳を疑った。
(……肝臓?)
聞いてはいけない。
そう分かっているのに、
身体が動かなかった。
「……分かっている」
バルディンの声は、
いつもより低く、掠れている。
「だが――やめられない」
短い沈黙。
「このままでは、取り返しがつかなくなります」
「次は、治療では済まない可能性も――」
「それでもだ」
遮るような声。
「今は、それでいい」
医務官が、息を飲む気配がした。
「殿下……」
「これ以上の忠告は不要だ」
「下がれ」
それで、会話は終わった。
足音が遠ざかり、
扉の向こうが、再び静寂に包まれる。
エリナは、
その場から動けなかった。
(……お酒)
酒浸りだという噂は、知っていた。
けれど、それが――
ここまで深刻だとは。
(……私)
胸の奥が、ひくりと痛む。
治せる。
――治せてしまう。
その事実が、
まるで罪のように浮かび上がる。
(言えば……)
今、扉を叩いて。
「治せます」と言えば。
必要とされる。
理由ができる。
ここに残れる。
けれど。
エリナは、ぎゅっと唇を噛みしめた。
(……だめ)
今は、言えない。
これは、
頼まれたことではない。
見せられた弱さでもない。
――盗み聞いた、秘密だ。
このまま治せば、
それは「差し出した」ことになる。
自分から、
自分を。
エリナは、そっと一歩、後ろへ下がる。
音を立てないように。
気づかれないように。
そして、その夜は――
何も言わず、自室へ戻った。
胸の奥に、
消えない重さを抱えたまま。
(……知ってしまった)
治せるということを。
使えるということを。
そして何より――
この人を、失いたくないと思ってしまったことを。
その事実だけが、
静かに、確実に、
エリナの中に根を張り始めていた。




