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眠れない夜の、二つの声

 その夜、エリナはどうしても眠れなかった。


(……あの声が、まだ耳に残ってる)


 雨の中、ふいに腕を引かれたときの感触。

 暗がりで聞いた、低く落ち着いた声。


 顔も見えなかった。

 名前も知らない。

 なのに。


(怖い……のに、どうして思い出しちゃうの?)


 胸がざわつき、落ち着かない。

 妃候補としてこんなことを考えているのは良くないと分かっているのに、意識はあの“誰か”に戻っていく。


 息が浅くなったそのとき――


 コン、コン。


 控えめなノック音に、身体がびくりと跳ねた。


「エリナ様。……起きていますか?」


 扉越しでも分かる、柔らかい声。

 エリナは慌てて扉を少し開いた。


「……ルシアン殿下?」


 廊下には第二王子ルシアンが、心配そうな目で立っていた。


「部屋の近くで、エリナ様の様子が少し沈んでいると聞きまして。

 夜分に失礼しました」


「ごめんなさい、そんな……。ご迷惑を……」


「迷惑だなんて。気になっただけです」


 ルシアンは優しく微笑んだ。

 王族とは思えないほど穏やかなその笑みに、胸の強ばりがふっとゆるむ。


「……噂のことで、少し……落ち込んでしまって」


 声が震えた。


「妃候補失格だ、と言われて……外出禁止まで……」


 涙を見せたくなくて目を伏せる。

 だがルシアンはすぐに首を振った。


「エリナ様は何も悪くありません。

 悪いのは、事実も知らずに面白半分で騒ぐ者たちです」


「でも……私……」


「大丈夫です。僕が兄上に話します」


「えっ……!」


 エリナは思わず顔を上げた。


「そ、そんな……殿下にご迷惑が……」


「迷惑ではありません。僕がそうしたいからします」


 迷いのない言葉に、胸の奥がじんわり熱くなる。


「……殿下は、どうしてそこまで……」


「困っている人を見たら、放っておけないだけですよ」


「……ありがとうございます」


 かすれた声がこぼれ、視界が少しにじんだ。

 泣かないと決めていたのに。


 ルシアンはそっと視線をそらし、優しい声音で言った。


「外は冷えています。どうか、今日は休んでください」


「……殿下こそ、お気をつけて」


 ルシアンは静かに背を向ける。


「兄上は今、執務室にいるはずです。必ず話します」


 廊下の先へ消えていく背中を、エリナはいつまでも見送った。


 扉を閉めると、静寂が戻る。


(……優しい人)


 胸の痛みが、ほんの少し和らいだ気がした。


 けれど――


(なのに、あの“声”の人のことを思い出すなんて……)


 雨の匂い、濡れた手、腕の力。

 断片だけが残り、正体の分からないまま心を乱す。


(あの人は誰……?

 どうしてこんなに……気になってしまうの?)


 怖い。

 でも――嫌じゃない。


 自分でも説明できない感情が、夜の闇の中で静かに膨らんでいく。


(……眠れないよ)


 エリナは胸に手を当て、そっと目を閉じた。


 まだ知らない。

 自分の心に芽生え始めているものの正体を――。

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