役に立つことで、そばに残る
回廊の向こうで、騒がしい気配がした。
色を選び、距離を詰め、
声を落とし、視線を絡める。
――分かりやすい。
バルディンは、書類から視線を上げずに、
耳だけでその動きを追っていた。
(もう動いたか)
削減の噂を流しただけで、
これだけ分かりやすく表に出る。
恐怖。
焦り。
選ばれたいという欲。
どれも、想定通りだ。
(……さて)
ペンを置き、わずかに口角を上げる。
胸を強調する者。
距離を詰める者。
声を甘くする者。
――そういう方向へ行くのは、分かっていた。
そして。
人混みの向こうに、
静かに立ち止まっている影がある。
派手でもない。
前に出るでもない。
ただ、
その場の空気を、必死に読み取ろうとしている。
(……ああ)
ようやく、そちらを見る気になった。
エリナ。
花束を見たあとだ。
噂も聞いたはずだ。
それでも、あの目だ。
焦っている。
だが、安易な方向には行かない。
(お前は、どう出る)
色仕掛けか。
才能披露か。
それとも――
バルディンは、指先で机を軽く叩いた。
(……ああ、そっちへ行くか)
エリナの視線が、
“王子”ではなく、
“自分にできること”へ向いたのを見て取る。
逃げない。
媚びない。
だが、残ろうとする。
――悪くない。
むしろ。
(やっと、欲が見えた)
選ばれたい。
必要とされたい。
その欲を、
自分なりの形で差し出そうとしている。
バルディンは、静かに笑った。
(それでいい)
動いた世界の中で、
自分の足で選択する。
その先が、
どこへ行き着くか――
試す価値は、十分にある。
ーー
夜の王宮は、昼とは別の静けさをまとっていた。
バルディンの私室に、淡い香りが広がる。
火を通した野菜と、薬草の穏やかな匂い。
主張しすぎない、けれど落ち着く香りだった。
小さな卓の上に、エリナは料理を並べる。
「……簡素ですが」
「お身体に負担が出にくい配合にしています」
声は控えめ。
自信がないわけではないが、評価を求めすぎない距離。
バルディンは、椅子に腰掛けたまま、無言で皿を見下ろした。
侍女が用意する料理とは違う。
見映えは控えめで、豪奢さもない。
だが――
妙に、落ち着く。
スプーンを取り、一口。
咀嚼の音だけが、部屋に落ちる。
エリナは、何も言わずに待っていた。
視線を逸らし、ただ、そこに立っている。
(……どうだろう)
胸の奥が、微かにざわつく。
期待しすぎないように、必死で抑えながら。
やがて、バルディンが口を開いた。
「……悪くない」
それだけ。
褒め言葉とも、評価とも言い切れない。
感情の温度が、ほとんどない声。
けれど。
エリナの胸は、はっきりと跳ねた。
(……よかった)
「美味しい」とは言われていない。
笑顔もない。
それでも――
否定されなかった。
それだけで、十分だった。
バルディンは、もう一口食べる。
次も、その次も。
淡々と。
作業の合間に口にするような、自然さで。
気づけば、皿は空になっていた。
「……しばらく、これでいい」
何気ない一言。
命令でも、依頼でもないような声音。
エリナは、はっとして顔を上げる。
「……また、作ってもよろしいですか?」
言ってから、自分で驚いた。
“お願い”をする前に、もう動いている。
バルディンは、ちらりとこちらを見る。
「手間でなければな」
それだけ言って、視線を書類に戻す。
それ以上、話は終わりだった。
けれど。
エリナの胸の奥には、
確かな熱が残っていた。
(……必要と、された)
特別扱いではない。
甘い言葉もない。
ただ、
「これでいい」と言われただけ。
それなのに。
この部屋で、
この人の生活の一部に、
ほんの少し入り込めた気がして。
胸の奥が、静かに満たされていく。
片付けを終え、部屋を出る前。
背中に、低い声がかかった。
「……次は、もう少し量を増やせ」
一瞬、息が止まる。
「……はい」
答えた声が、
自分でも驚くほど、弾んでいた。
扉を閉めたあと、
エリナは回廊で立ち止まる。
(……また、作ろう)
もっと体にいいものを。
もっと、負担を減らせる配合を。
役に立てる。
必要とされる。
その感覚が、
ゆっくりと、でも確実に――
心の奥に根を張り始めていることに。
エリナは、まだ気づいていなかった。
そして、部屋の中。
バルディンは、空になった皿を一度だけ見てから、
何事もなかったように書類へ視線を戻す。
(……悪くない)
それは料理の感想であり、
そして――
この関係そのものへの評価でもあった。
静かに、依存は始まっていた。




