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追い出されないだけで、こんなにも安心するなんて

部屋の空気が、ゆっくりと落ち着いていく。


 バルディンは、それ以上エリナに視線を向けることなく、

 机へ戻り、書類に目を落とした。


 羽根ペンの擦れる音。

 紙をめくる、静かな気配。


 ――それだけ。


 何も言われない。

 指示もない。


 けれど。


 追い出されてもいなかった。


(……いいのかな)


 立ったまま、エリナは小さく呼吸を整える。

 さっきまで胸を締めつけていた不安が、

 嘘のように、ゆっくりほどけていく。


 ここにいる理由を、もう探さなくていい。

 言葉を用意しなくていい。


 ただ、ここにいればいい。


 それだけで、

 胸の奥が、不思議なほど静かだった。


 少しして、バルディンが視線も上げずに言う。


「……座れ」


「……はい」


 短い返事をして、勧められた椅子に腰を下ろす。

 それだけの動作なのに、胸がきゅっと鳴った。


(……許されてる)


 それ以上の意味はない。

 ただの指示。


 それなのに、

 「いていい」と言われた気がしてしまう。


「……部屋にいるだけで、そんなに嬉しいのか」


 そう言って、

 バルディンは、ほんの一瞬――口元だけで、ふっと笑った。


 それは、からかうようでもあり、

 呆れたようでもあり、

 けれどどこか、余裕を含んだ笑みだった。


 返事が、できなかった。


 否定したかったのに、

 否定できる言葉が、見つからなかった。


 時間が、静かに流れる。


 バルディンは仕事を続け、

 エリナは何もせず、そこにいる。


 会話はない。

 視線も、ほとんど交わらない。


 それなのに。


 部屋から追い出されないことが、

 こんなにも安心するなんて。


(……変なの)


 何かをしてもらっているわけじゃない。

 触れられてもいない。

 褒められてもいない。


 それでも、

 ここにいられるだけで、

 胸の奥が満たされていく。


 ――この時間が、ずっと続けばいい。


 そんな考えが浮かんでしまって、

 エリナは、そっと唇を噛みしめた。


 やがて、ペンを置く音がする。


 バルディンが顔を上げ、

 ようやく、エリナを見る。


「……まだいるつもりか」


 一瞬、心臓が跳ねた。


 責める声ではない。

 呆れた様子もない。


 ただ、事実を確認するような声音。


「……はい」


 答えは、考えるより先に出ていた。


 バルディンは、ほんの一瞬だけ目を細める。


「そうか」


 それ以上は、何も言わなかった。


 けれど、その一言で、

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。


(……よかった)


 拒まれていない。

 間違っていなかった。


 自分の居場所が、

 まだ、ここにある。


 どれくらい時間が経ったのか、分からない。


 やがて、バルディンが再び口を開く。


「……もう帰っていい」


 その言葉に、

 胸の奥が、きゅっと締めつけられた。


(……帰りたくない)


 声には、出せない。

 言ってはいけない。


 それでも、

 この時間が終わってしまうのが、

 どうしようもなく惜しかった。


「……はい」


 立ち上がり、一礼する。


 足を一歩、後ろへ下げたところで、

 バルディンが、低く言った。


「夜だ。

 用があるなら――分かっているな」


 エリナは、はっと息を詰める。


(……お願いが言えたら)


 胸の奥が、熱を帯びる。


「……はい」


 そう答えると、

 バルディンは、もうこちらを見なかった。


 部屋を出る。


 扉が閉まった瞬間、

 エリナは、ようやく大きく息を吐いた。


(……何も、なかった)


 それなのに。


 胸の奥は、

 これ以上ないほど、満たされていた。


(……また、来たい)


 その気持ちを否定できないまま、

 エリナは、静かな回廊を歩き出した。


 ――次は。


 ちゃんと、

 「お願い」を言えるようになるために。

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