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泣く理由なんて、なかったのに

(……何も、言われない)


 追い返されてもいない。

 許されたとも、はっきり言われていない。


 それなのに。


 立っているだけで、

 この場から動いてはいけない気がした。


 呼吸を整えろと言われた通り、

 エリナは、静かに息を吸う。


 吐く。


 吸う。


 ――見られている。


 声も、視線も、動きもないのに、

 確かに、意識されている。


(……どうしたらいいの)


 謝るべき?

 何か言うべき?


 でも、

 何を言えばいいのか、分からない。


 沈黙が、怖い。


 それ以上に、

 この沈黙を破ってしまうのが、もっと怖い。


 ――ここにいていいのか。

 それとも、まだ、試されているのか。


 喉が、ひくりと鳴る。


 言葉を探して、

 でも、見つからない。


 バルディンは、

 それを待っているのか、

 それとも――待っていないのか。


 分からない。


 分からないまま、

 時間だけが過ぎていく。


 それなのに。


 なぜか、

 追い出されないことが、

 胸の奥で、じんわりとした安堵に変わっていく。


(……まだ)


(……ここに、いていい)


 そう思ってしまった瞬間、

 また、涙が滲みそうになって、

 エリナは、ぎゅっと唇を噛みしめた。


 ――何もされていないのに。


 ただ、黙って立っているだけなのに。


 この沈黙そのものが、

 彼の意志であることを、

 エリナは、本能的に理解していた。

 

 やがて、沈黙を破ったのは、バルディンだった。


「……泣く必要はないだろう」


 声は低く、落ち着いている。


 責めてもいない。

 慰めてもいない。


 ただ――

 泣く状況ではないと、当然のように言う声だった。


「拒んでいない」

「追い返してもいない」

「……謝る必要もない」


 続く言葉はない。

 それでも、意味は十分だった。


 エリナは、はっとして息を飲む。


(……そう、だ)


 泣く理由なんて、

 本当は、ない。


 来るなとも言われていない。

 嫌だとも言われていない。


 ただ、

 “条件がある”だけ。


 その事実が、

 胸の奥を、静かに温めた。


「……俺は、言ったはずだが」


 低く、落ち着いた声音。


「お願いが言えたら、

 部屋に入って待っていてもいい、と」


 その一言で。


 胸の奥に溜まっていたものが、ふっと緩んだ。


(……あ)


 許されていた。


 あの夜も。

 待っていた時間も。

 言えなかったことも。


(……よかった)


 嫌われていなかった。

 呆れられてもいなかった。


 ただ――

 条件を、越えていなかっただけ。


 それに気づいた瞬間、

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。


(……私)


 勝手に不安になって、

 勝手に追い詰められて、

 勝手に泣きそうになっていただけだった。


 バルディンは、何も変えていない。

 最初から、言った通りにしていただけ。


 その事実が、

 なぜか胸に、深く沁みた。


(……許して、もらえてたんだ)


 言葉にしなくても、

 態度にしなくても。


 ちゃんと――

 ここに来る場所は、用意されていた。


 胸の奥が、すっと静まっていく。


 正しい。

 この人の言うことは、いつも。


 考えすぎていた自分が、

 少しだけ恥ずかしくなる。


(……やっぱり)


 この人の言葉に従っていると、

 不思議と安心する。


 指示されるたび、

 線を引かれるたび、

 自分の居場所が、はっきりする。


(……好き、だな)


 その感情が浮かんだ瞬間、

 エリナは小さく息を詰めた。


 “そう思ってしまった”ことに、

 驚いてしまったから。


 それでも。


 否定できなかった。


 この人の前では、

 迷わなくていい。


 考えなくていい。


 ただ、

 言われた通りにしていればいい。


 それが――

 今は、何よりも心地よかった。


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