捨てられるのが怖くて、王子の部屋の前に立っていた夜
その夜。
気づけば、エリナは王子の私室の前に立っていた。
扉を見上げた瞬間、
胸の奥が、ひくりと強く痛んだ。
(……だめ)
ここに来てはいけない。
分かっている。
呼ばれていない。
許されたわけでもない。
(……もし)
もし、迷惑だと思われたら。
もし、嫌われたら。
――もし、この扉の向こうで、
はっきりと拒まれたら。
(……捨てられたら)
その想像だけで、
喉がきゅっと締めつけられる。
今まで、黙って許されていた時間。
追い出されなかった夜。
あれは、ただの気まぐれだったのかもしれない。
都合がよかっただけなのかもしれない。
(……私)
必要じゃなくなったら。
役に立たなくなったら。
簡単に、切り捨てられる。
そう分かっているのに。
怖くて、足がすくむのに。
それでも――
この場から離れるという選択肢が、
どうしても思い浮かばなかった。
(……行かなきゃ)
理由なんて、ない。
正当性も、ない。
ただ。
ここで背を向けたら、
本当に終わってしまう気がした。
嫌われるかもしれない。
捨てられるかもしれない。
それでも。
何もせずに戻るほうが、
もっと怖かった。
エリナは、震える息を一つ飲み込む。
扉に手を伸ばしかけて、
一度、止める。
(……殿下)
心の中で名前を呼ぶ。
――お願いだから。
まだ、切り捨てないで。
その願いを、
自分でも卑怯だと思いながら。
それでも、手を引くことはできなかった。
「……殿下……」
声にならない声。
そのとき。
――扉が、開いた。
「……エリナ?」
聞き慣れた、低い声。
その一言で。
エリナの視界が、一気に滲んだ。
「……っ」
足に力が入らない。
息が、うまく吸えない。
次の瞬間。
「……どうした」
近づいてきた気配。
手が伸びる。
触れられる前に、
エリナは、堪えていたものをすべて零してしまった。
「……会えなくて……っ」
「……私……」
言葉にならないまま、
涙が、止まらなくなる。
扉の前。
廊下の灯りの下。
体裁も、妃候補としての立場も、
何も考えられなかった。
ただ。
会えた。
それだけで。
「……っ、ごめんなさい……」
嗚咽混じりの声。
「私が……悪いんです……」
「勝手に来て……」
「迷惑なの、分かってて……」
言葉が、途切れ途切れになる。
「会いたいなんて……思う資格もないのに……」
「なのに……なのに……」
涙が落ちるたび、
自分を責める言葉だけが、先に溢れた。
「私が悪い……」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
嗚咽混じりに、何度も繰り返す。
言葉が尽きても、
謝る以外の選択肢が見つからなくて。
エリナは、唇を震わせたまま、
必死に声を絞り出した。
「私、いい子にします……」
「……何でも、しますから……」
言い切る前に、
声が、喉で絡まって消える。
自分でも、
何を差し出そうとしているのか分かっていた。
だからこそ、
怖くて、続きを言えなかった。
「……嫌われないように……」
「……ここに、いさせてください……」
願いとも、懇願ともつかない声。
謝っているはずなのに、
本当は――
見捨てないで、と
必死に縋っているだけだと、
エリナ自身が、いちばん分かっていた。
バルディンは、何も言わず、
そっと距離を詰めた。
「……中に入れ」
低く、静かな声。
拒絶じゃない。
叱責でもない。
それだけで、
エリナは、さらに涙を溢れさせた。
――完全に、止められなくなっていた。
部屋の中に入っても、嗚咽が止まらなかった。
息を吸おうとするたびに、
胸の奥が引きつって、うまく空気が入らない。
「……私が……悪くて……」
「……勝手に……」
言葉にならないまま、
涙だけが零れ落ちる。
その前で。
バルディンは、触れなかった。
手を伸ばさず、
距離も詰めすぎず。
ただ、低く落ち着いた声で言う。
「……息をしろ」
短い一言。
叱るでも、急かすでもない。
命令とも、助言ともつかない声音。
沈黙が、落ちた。
バルディンは、それ以上何も言わなかった。
近づきもしない。
触れもしない。
ただ、そこに立っている。
廊下の灯りが、二人の間に淡い影を落とす。
時間が、ゆっくりと引き伸ばされていく。




