表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

61/64

会えないだけで、心がこんなに不安になるなんて

 それから、日々は淡々と過ぎていった。


 薬膳を作り、

 薬草を調べ、

 図書館と厨房を往復する。


 やるべきことは、変わらない。

 手を抜いているわけでもない。


 それなのに――

 バルディンから、声がかかることはなかった。


(……今日も)


 廊下を歩きながら、エリナは無意識に足を止める。

 呼ばれる気配を探してしまい、はっとして、また歩き出す。


 数日。

 それだけの時間。


 たったそれだけで、

 胸の奥が、じわじわと削られていく感覚を、エリナは初めて知った。


(……もし、このまま)


 もし、もう二度と呼ばれなかったら。

 あの夜は、ただの気まぐれだったとしたら。


 「ここにいていい」と言われたのも、

 深い意味なんて、なかったのだとしたら。


(……お願い、なんて)


 口にしてしまった言葉を、思い出す。


 欲しがる声。

 縋るような視線。


(……重かった?)


 胸が、じわりと苦しくなる。


 はっきり拒まれたわけじゃない。

 叱られたわけでもない。


 ただ――

 呼ばれない。


 それだけの事実が、

 静かに、確実に、不安を育てていく。



 数日後。


 回廊の片隅で、妃候補たちの小声が耳に入った。


「今日の午前中、殿下を中庭でお見かけしましたわ」

「ええ、執務の合間だったみたい」


 何気ない世間話。

 聞き流していいはずの会話。


 ――それなのに。


 エリナの足が、ぴたりと止まった。


(……中庭?)


 今日の午前中。

 自分も、確かにその近くを通っていた。


 けれど。


(……会ってない)


「最近、本当にお忙しそうよね」

「それでも、ちゃんと声をかけてくださるのが殿下らしいわ」


 楽しげな笑い声。


 エリナは、何も言わず、その場を通り過ぎる。


(……おかしい)


 偶然だと、思おうとした。

 時間がずれていただけだと。


 でも。


 他の妃候補は、見かけている。

 声も、かけられている。


 なのに。


(……私だけ?)


 胸の奥に、冷たいものが落ちる。



 その日、エリナは用事もないのに回廊を歩いていた。


 籠は持っていない。

 届ける書類もない。


(……偶然、会えたら)


 そんな言い訳を、胸の中で繰り返しながら。


 中庭。

 執務室の近く。

 医務室の回廊。


 ――いない。


(……また)


 胸の奥が、すうっと冷える。


 時間をずらしても、

 場所を変えても、

 どうしても、バルディンの姿だけが見つからない。


(……忙しいだけ)


 そう言い聞かせようとして、

 思い切れなかった。


「エリナ様?」


 不意に声をかけられ、振り向く。


 同じ妃候補の一人が、穏やかに微笑んでいた。


「殿下をお探し?」


「……いえ」


 反射的に否定する。


 けれど、その一瞬の間を、相手は見逃さなかった。


「あら、そう?」


 軽く首を傾げてから、何気ない調子で言う。


「でも最近、殿下――

 あの方と、よくお話しされているみたいよ」


 ――あの方。


 名前は出ない。

 それが、かえって残酷だった。


「中庭でも、図書室の前でも」

「何度かお見かけしたわ」


(……知らない)


 胸の奥で、何かが、静かに崩れる。


 自分は、見ていない。

 自分は、呼ばれていない。


 探しても、会えなくて。

 それなのに、他の誰かとは――


(……私だけ)


 口元が、かすかに震えた。


「そう……なんですね」


 それだけ答えるのが、精一杯だった。


 相手は気づかないまま、会釈して去っていく。



 その場に残されたエリナは、しばらく動けなかった。


 避けられているのかもしれない。

 もう、必要とされていないのかもしれない。


 お願いなんて、言ったから。

 欲しがる顔を、見せたから。

 欲張ったから、いけなかった。


 あんなことをしなければ、

 今日も、会えたかもしれないのに。


(……ばか)


 自分を責めても、

 心は、少しも楽にならなかった。


 ――会えない。


 それだけで、

 こんなにも、心が不安定になるなんて。


 そして、その不安の正体が、

 「嫌われたかもしれない」ではなく、


 「もう、特別じゃないのかもしれない」


 その恐れだということに、

 エリナは、まだ気づいていなかった。


 ただひとつ確かなのは――


 このまま、何も言わずに待ち続けることが、

 もう、耐えられないということだけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ