足りないなら、努力すればいいと思っていた
まだ夜が明けきらない時間。
厨房には、静かな灯りだけが残っていた。
エリナは、いつもより早くそこに立っている。
誰に言われたわけでもない。
決められた仕事でもない。
(……眠れなかったから)
そう自分に言い聞かせて、薬草を手に取る。
乾燥具合。
香り。
指先で確かめる感触。
ほんの少しでも、昨日より良く。
ほんの少しでも、違いが出るように。
昨夜、お願いは言えた。
それだけで、満足できるはずだった。
それなのに――
どうして今は、足りないなんて思っているのだろう。
(……次は)
どうしたら、もっと喜んでもらえるだろう。
どうしたら、必要だと思ってもらえるだろう。
どうしたら――
あの人に、触れてもらえるのだろう。
自分でも驚いて、エリナは手を止めた。
(……何を考えてるの)
包丁を持つ指に、ぎゅっと力が入る。
必要とされたい。
役に立ちたい。
それは、嘘じゃない。
でも。
昨夜の距離。
声だけで、何もされなかった時間。
それなのに、身体の奥が熱を持っていた感覚。
あれを思い出すたび、
胸の奥が、静かに疼く。
(……抱いてほしい、なんて)
口に出せるわけがない。
考えていいことでもない。
それなのに。
“お願いが言えたら”
その先に、何があるのかを
勝手に想像してしまう自分がいる。
薬草を刻む音が、少しだけ乱れた。
(……だめ)
妃候補として。
ちゃんとした理由で、ここにいなければ。
エリナは、深く息を吸い、
もう一度、薬草に意識を戻す。
――足りないなら。
腕を磨けばいい。
知識を増やせばいい。
そうやって、
“役に立つ”理由を積み上げていけば。
この、どうしようもない欲も
いつか、静まってくれるはずだと
どこかで信じていた。
そう思ってしまった時点で、
欲と理由が、もう切り離せなくなっていることに――
エリナは、まだ気づいていなかった。
ーー
王宮の図書館は、昼でもひんやりと静かだった。
高い書架。
古い紙の匂い。
人の気配は、ほとんどない。
エリナは、机に薬草書を広げたまま、身動きもせずにいた。
(……こんなに、種類が)
効能。
組み合わせ。
煎じる順番。
体質による違い。
今まで、必要な分だけ覚えれば十分だと思っていた。
仕事としては、それで足りていた。
けれど。
(……もっと、できるはず)
ページをめくる指が止まらない。
薬膳に向く草。
疲労を取る配合。
眠りを深くする調合。
――“夜”に効くもの。
その文字を見つけるたび、
胸の奥が、わずかにざわついた。
(……別に、意味はない)
ただの勉強。
ただの備え。
そう言い聞かせながら、
気づけば、同じ項目を何度も読み返している。
もし、次に呼ばれたら。
もし、また頼まれたら。
今度は、もっと役に立てる。
(……そうすれば)
理由は、ちゃんとある。
妃候補として、知識は必要だ。
薬草係として、腕を磨くのは当然だ。
――それだけ。
そう思いたかった。
けれど。
書架の影で、ふと目を閉じた瞬間、
浮かぶのは文字ではなく、あの静かな声。
あの視線。
あの距離。
あの、短い時間。
(……また、会いたい)
許されるなら――
あの人に、
めちゃくちゃに、されたい。
思考がそこまで行ってしまった瞬間、
エリナは、はっと我に返った。
(……また)
どうして、こんなことばかり考えているのだろう。
触れられてもいない。
約束も、何もない。
それなのに。
あの人に壊されるなら、
それでもいいと、
心のどこかで思ってしまう自分がいる。
(……だめ)
小さく、首を振る。
妃候補として。
人として。
そんなふうに願っていい理由なんて、
どこにもないはずなのに。
胸の奥に残る熱が、
なかなか引いてくれなかった。
本を閉じると、少しだけ現実に戻る。
エリナは、深く息を吸い、
また別の本に手を伸ばした。
――足りないなら。
知識も。
腕も。
時間も。
全部、積み重ねればいい。
そうすれば、きっと。
また、必要だと言ってもらえる。
その考えが、
どこまで自分を連れて行くのか――
まだ、考えないことにした。




