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欲しがっていることに、気づいた朝

 朝の王宮は、いつもと変わらないざわめきに包まれていた。


 侍女たちの足音。

 差し込む光。

 回廊を行き交う人々の声。


 エリナは籠を抱え、薬草の確認をしながら歩いていた。


(……眠れなかった)


 昨夜、あれほど胸が満たされていたのに。

 許された時間を何度も思い返して、目を閉じるたびに息が浅くなって。


 ふと、前方に人だかりが見えた。


 ――そこにいたのは、バルディンだった。


 数人の妃候補と並び、穏やかな表情で言葉を交わしている。

 いつも通りの姿。

 何もなかったような、王子の顔。


 そのはずなのに。


 視線が、勝手にそこへ引き寄せられた。


 話の合間に、ふっと緩む口元。

 言葉を区切るときに、顎に添えられる指先。


(……あ)


 胸の奥が、ひくりと跳ねる。


  ――もし。


 あの唇で、耳元で名前を呼ばれたら。

 あの指先で、そっと手に触れられたら。


(……っ)


 考えが形になる前に、エリナははっとして視線を逸らした。


(何、考えてるの……私)


 顔が、じわりと熱くなる。


 昼間だ。

 人目もある。

 妃候補として、あるまじきことだ。


(だめ……だめ)


 ぎゅっと籠を抱きしめ、歩調を早める。


 昨夜の余韻が、まだ身体のどこかに残っていることを、認めたくなかった。


 それなのに。


  その夜。


 エリナは、夢を見た。


 静かな部屋。

 灯りの落ちた空間。


 あの人が、そこにいた。


 背中を向けて立っているだけなのに、

 なぜか、目を離せなかった。


 近づいてくる気配。

 低く、落ち着いた声。


「……欲しいものがあるなら」


 振り向いたその瞳が、

 まっすぐ、こちらを見る。


「お願いしてみろ」


 命令でも、誘いでもない。

 ただ、当然のような声音。


 喉が、ひくりと鳴った。


 何を?

 何を、お願いするというのか。


 分からないはずなのに。


 胸の奥が、熱を持つ。

 逃げ場のないほど、はっきりと。


(……だめ)


 そう思ったのに。


 言葉は、止まらなかった。


「……お願いします」


 声が、震える。


 自分でも、何を言おうとしているのか分かっていた。

 分かっているのに、止められない。


「……私を」


 一拍。


 唇が、勝手に動く。


「……抱いてください」


 言ってしまった瞬間――


「……っ」


 はっと、目を覚ます。


 暗い自室。

 自分の寝台。


 夢だと分かっているのに、

 心臓が、耳の奥でうるさく鳴っていた。


(……最悪)


 布団の中で、顔を覆う。


 触れられていない。

 何もされていない。


 それなのに、胸の奥が熱を持っていて、呼吸が落ち着かない。


(私……)


 恥ずかしさと、自己嫌悪が押し寄せる。


 嬉しかっただけ。

 満たされただけ。


 そう思いたかったのに。


 ――自分から、欲しがっていた。


 その事実から、目を逸らせなかった。


(……ちゃんとしなきゃ)


 妃候補として。

 一人の人間として。


 このままではだめだ。


 エリナは、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。


(健全なことに、集中しよう)


 薬膳。

 薬草。

 自分にできること。


 それなら、考えなくて済む。

 余計な想像を、しなくて済む。


 そう言い聞かせながら、エリナは目を閉じた。


 胸の奥に残る、消えない余熱から――

 必死に、意識を逸らしながら。


 しばらくして、ようやく呼吸が整ってくる。


 胸の奥に残る熱は、すぐには消えてくれない。

 まるで、思い出すなと命じるほど、存在を主張するみたいに。


(……こんなの、初めて)


 誰かの姿を追って、眠れなくなる夜も。

 触れられていないのに、身体が反応してしまう感覚も。


 知らない自分に、少しだけ怖くなる。


(……ちゃんと、戻らなきゃ)


 元の自分に。

 仕事に集中して、余計なことを考えない自分に。


 エリナは、胸元に手を当てて、もう一度深く息を吸った。


 ゆっくり。

 一つずつ。


 熱を吐き出すように。


(大丈夫)


 そう言い聞かせる声は、少しだけ震えていたけれど。

 今は、それでもいい。


 少なくとも――

 この想いを、誰にも気づかれないように隠せているうちは。


 エリナは、そう思うことで、

 ようやく、浅い眠りへと身を委ねた。

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