嬉しくて、眠れない夜
自室の扉を閉めた瞬間、張り詰めていたものがふっと緩んだ。
静かだ。
さっきまでいた王子の私室とは違う、慣れ親しんだ空気。
――戻ってきてしまった。
そう思ったはずなのに、胸の奥は不思議と軽かった。
寝台に腰を下ろし、そっと息を吐く。
いつもなら、ここでようやく緊張が解けて眠りに落ちる。
けれど。
(……眠れない)
横になって目を閉じても、意識が冴えてしまう。
思い出してしまうのは、
追い払われなかったこと。
「ここにいていい」と許された、あの短い時間。
何もされなかった。
触れられたのは、ほんの一瞬だけ。
それなのに。
(……嬉しかった)
胸の奥が、またじんわりと温かくなる。
布団の中で、ぎゅっと指先を握りしめた。
(……私、どうしたんだろう)
怖かったはずだ。
危ないと思っていたはずだ。
それでも、
拒まれなかったことが、こんなにも嬉しいなんて。
布越しに、まだ残っている気がする。
あの距離。
あの視線。
あの、ほんの一瞬の温度。
(……また、会いたい)
思ってしまって、はっとする。
(だめ)
次は期待しない。
そう決めたばかりなのに。
それなのに、
「次」があることを、どこかで疑っていない自分がいる。
(……お願い、言えた)
その事実が、胸をくすぐる。
言えなかった夜。
言えた今夜。
たったそれだけの違いで、
世界が少しだけ変わった気がした。
寝返りを打つ。
けれど、瞼の裏に浮かぶのは、穏やかな笑み。
(……ずるい)
何も約束してくれなかった。
何も与えられていない。
それなのに、
「ここにいていい」と言われただけで、
こんなにも満たされてしまうなんて。
目を閉じるたび、あの声が蘇る。
許された時間。
短い言葉。
それだけなのに、胸がふわりと緩んでしまう。
(……だめ)
そう思った瞬間、唇が勝手に緩んだ。
慌てて手で口元を押さえる。
暗い部屋なのに、顔が熱い。
(……私、にやにやしてる)
思い出しては、また口元が緩む。
どうしても、止められない。
嬉しかった。
それだけのことが、どうしようもなく。
エリナは、布団の中で小さく息を吐いた。
(……明日)
明日も、平然としていなければ。
妃候補として、いつも通りに。
そう思うのに。
胸の奥では、
もう次の夜を待っている自分がいる。
目を閉じても、眠りは訪れない。
嬉しさが、
期待が、
静かな熱になって、消えなかった。
――こんな夜は、初めてだった。
目を閉じると、光景が浮かぶ。
あの部屋の灯り。
床に落ちていた影。
窓辺に揺れていた、淡い光。
そこに立っていた、自分。
少し離れた場所にいた、王子。
何度も、何度も。
会話があったわけじゃない。
触れられたわけでもない。
ただ、同じ空間にいて、
同じ静けさを共有していただけ。
それなのに。
視線を向けられた位置。
名を呼ばれたときの距離。
許された、ほんの短い時間。
それらが、
一枚の絵みたいに、
頭の中で繰り返し浮かぶ。
(……また、思い出してる)
消したいわけじゃない。
むしろ――
もう一度、確かめるように。
同じ光景を、
何度も、何度も、なぞってしまう。
胸に手を当てると、心臓の音が少しだけ速い。
焦れているわけでもない。
苦しいわけでもない。
ただ――
確かに、満たされている。
何もされていないのに。
与えられたのは、ほんのわずかな時間だけなのに。
(……これで、いい)
そう思えたことが、
今夜いちばんの驚きだった。
欲張らなくていい。
急がなくていい。
今はただ、
思い出すたびに胸が温かくなる、
この感覚を抱いたまま眠れたら――
そんなふうに思いながら、
エリナはゆっくりと目を閉じた。
眠りは、まだ遠い。
けれどそれさえも、
悪くない夜だと感じてしまう自分に、
小さく苦笑した。




