ここに、いさせてください
沈黙が、落ちた。
エリナは俯いたまま、息を整えていた。
ここまで来て、まだ言葉が足りない。
胸の奥で、必死に何かが叫んでいる。
「……少しだけで、いいので」
声が、かすれる。
それだけでは、足りない。
ここまで来た意味が、ない。
バルディンは答えない。
椅子から立ち上がる音がして、
一歩、距離が詰まった。
「……それで?」
低い声。
逃げ場のない問いだった。
エリナは、ぎゅっと拳を握りしめる。
言えなかった夜を、
もう一度繰り返すわけにはいかない。
「……お願いです」
はっきりと、そう言った。
その一言で、喉が熱くなる。
「……ここに」
一瞬、言葉が詰まる。
拒まれる想像が、頭をよぎる。
それでも。
「……ここに、いさせてください」
静かに、でも逃げずに言い切った。
それは命令でも、取引でもない。
ただの、居場所を乞う言葉。
沈黙。
長くはない。
けれど、エリナには永遠のようだった。
バルディンは、何も言わずにエリナを見ていた。
視線を逸らさないことも。
震えながら立っていることも。
すべてを見たうえで――
「……よく言えたな」
低く、静かな声。
その一言で、胸の奥が一気に熱くなる。
拒まれなかった。
笑われなかった。
追い返されなかった。
エリナの目に、じわりと涙が滲む。
次の瞬間。
バルディンの指先が、
ほんの一瞬だけ――髪に触れた。
撫でるほどでもない。
確かめるような、短い接触。
それなのに。
胸の奥で張りつめていたものが、
音を立ててほどけた。
言えたこと。
待ったこと。
我慢した夜。
全部が、その一瞬で報われた気がした。
バルディンは、すぐには離れない。
ほんの数秒。
何も言わず、何もせず。
――“ここにいていい”時間。
それが、どれほど嬉しいことなのか、
エリナはそのとき、初めて知った。
触れられていない。
抱き寄せられたわけでもない。
ただ、追い払われずに、同じ空間に立っているだけ。
それだけなのに、
胸の奥がじんわりと満たされていく。
――ああ。
この瞬間が、
ずっと続けばいいのに、と思ってしまった。
何もされなくていい。
話しかけられなくてもいい。
ただ、ここにいて、
この視線の中にいられたら。
そんなことを願ってしまう自分が、
少し怖くて、
それでも、止められなかった。
やがて。
「……今日は、ここまでだ」
穏やかな声。
それが許可であり、区切りだと分かる。
「下がれ」
命令は、静かだった。
「……はい」
名残惜しさを押し込めて、そう答える。
扉へ向かう途中、
背中にまだ視線を感じた。
――見られている。
それだけで、胸が熱くなる。
扉を閉めた瞬間、
ようやく涙が一粒、こぼれた。
(……言えた)
お願いです、と。
ここにいさせてください、と。
それだけのことなのに。
胸がいっぱいで、しばらく動けなかった。
「よく言えた」と言われた夜を、
エリナはきっと、何度も思い出してしまう。
この一言が、
どこへ続いていくのかも知らないまま。




