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待つだけでは、終われない

昼の王宮は、騒がしかった。


 侍女たちの足音。

 妃候補たちの話し声。

 陽の光が差し込む回廊。


 昨夜、ほとんど眠れなかったとは思えないほど、

 世界は何事もなかったように動いている。


 エリナは、籠を抱えたまま立ち止まっていた。


 視線の先。


 そこにいたのは――

 第一王子、バルディン。


 数人の妃候補に囲まれ、

 穏やかな声で言葉を交わしている。


 いつもの距離。

 いつもの表情。


 昨夜の静かな部屋も、

 扉の前で立ち尽くした自分も、

 すべてが夢だったかのように。


(……平気、そう)


 胸の奥が、ひくりと鳴る。


 そのとき。


 バルディンが、ふと微笑んだ。


 隣にいた妃候補の一人に向けて。

 ほんの、社交的な微笑み。


 それだけなのに。


 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。


(……あ)


 分かっている。

 分かっていたはずだ。


 自分だけじゃない。

 特別扱いじゃない。


 王子は、王子で。

 妃候補は、自分一人じゃない。


 それなのに。


 昨夜、あの扉の前で感じた苦しさが、

 一気に思い出される。


 待っていたのは、自分だけ。

 考えていたのも、自分だけ。


(……ばかみたい)


 視線を逸らそうとした、その瞬間。


 バルディンの目が、

 こちらをかすめた。


 ほんの一瞬。

 確かに、エリナを見た。


 ――それだけ。


 声も、合図も、ない。


 何もなかった顔で、

 また妃候補たちへ視線を戻す。


 それが、

 昨夜よりも、ずっと残酷だった。


(……私だけ、だ)


 昨夜のことを、

 まだ引きずっているのは。


 扉の前で立ち尽くし、

 行かなかったことを後悔し、

 眠れなかったのは――


 自分だけ。


 胸が、痛い。


 それでも。


 その痛みの奥で、

 別の感情が、静かに形を成す。


(……違う)


 ただ、羨ましかったわけじゃない。

 ただ、独占したかったわけでもない。


 ――欲しかった。


 昨夜と同じ視線を。

 同じ静けさを。

 自分に向けられる、あの時間を。


(……待ってるだけじゃ)


 駄目なんだ。


 何も起きなかったのは、

 拒まれたからじゃない。


 言わなかったから。


 欲しいなら、

 口にしろ。


 その言葉が、今になって胸に落ちる。


 エリナは、ぎゅっと籠を抱き直した。


(……今夜は)


 逃げない。

 立ち止まらない。


 扉の前で、帰らない。


 たとえ、一言だけでも。


 恥ずかしくても、

 怖くても。


(……今夜は、行く)


 そう決めた瞬間、

 胸の奥の痛みは、

 静かな熱に変わっていた。


 回廊の向こうで、

 変わらない笑顔を浮かべるバルディンを背に、


 エリナは、前を向いて歩き出した。


 ――今度こそ。


 待つだけじゃなく、

 選ぶために。


 歩きながら、指先がわずかに震えていることに気づく。


(……怖い)


 行けば、何かが変わる。

 変わってしまう。


 期待して、

 拒まれて、

 取り返しがつかなくなるかもしれない。


 それでも。


 何もしないまま、

 昨日と同じ夜を迎えるほうが――

 もっと、耐えられない。


 昨夜、扉の前で感じた苦しさ。

 胸を押さえながら、眠れなかった時間。


 あれは、もう二度と繰り返したくない。


(……欲しいものがあるなら)


 逃げずに、向き合え。


 誰かに言われたわけでもない。

 教えられたわけでもない。


 ただ、自分の中で、

 はっきりとそう思えた。


 回廊を抜けると、陽の光が一段強くなる。

 その眩しさに、ほんの一瞬だけ目を細めてから――


 エリナは、静かに息を吸った。


 今夜。


 自分の言葉で、

 自分の欲しいものを、

 ちゃんと伝えるために。


 その覚悟を胸に、

 エリナは、歩みを止めなかった。


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