表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

51/60

放っておかれた夜に、扉を叩いた

 それから数日。


 バルディンは、何もしてこなかった。


 呼び出しもない。

 薬膳の依頼もない。

 あの視線も、あの一言も。


 ――何も。


(……忙しいだけ)


 そう思おうとするたび、

 胸の奥で、小さな焦りが育っていく。


 廊下ですれ違えば、いつも通りの微笑み。

 他の妃候補にも向けられる、完璧な王子の顔。


 エリナにだけ向けられていたはずのものが、

 どこにも見当たらない。


(……私の、勘違いだった?)


 そう思った瞬間、

 胸がひどく痛んだ。


 期待してはいけない。

 分かっている。


 それでも。


 夜になると、思い出してしまう。

 あの部屋。

 名前を呼ばれた声。

 「またその目をしているな」と言われた、あの夜。


(……会いたい)


 気づいたときには、

 その言葉が、心の奥で何度も繰り返されていた。


 ――だめ。


 自分で自分を戒める。

 妃候補として、節度を保たなければ。


 けれど、体は正直だった。


 食事をしていても、味が分からない。

 仕事に集中しようとしても、ふと視線が扉に向く。


 来るはずがないと分かっているのに。


(……どうして)


 何もされていない。

 拒まれたわけでもない。


 それなのに、

 「何もない」ことが、こんなにも苦しい。


 その夜。


 エリナは、薬草庫で作業を終えたあと、

 しばらくその場を動けずにいた。


(……このままじゃ、だめ)


 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


 放っておかれるのが、

 こんなに辛いなんて思わなかった。


 期待してはいけないのに。

 期待している自分が、こんなにもはっきり分かる。


(……一度だけ)


 心の中で、言い訳をする。


 一度だけ、確かめたい。

 自分が、見放されたわけじゃないことを。


 エリナは、ゆっくりと私室を出た。


 向かう先は――

 もう、考えるまでもなかった。



 王子の私室の前で、足が止まる。


 ここに来るつもりなんて、なかった。

 なのに、体が勝手に動いていた。


(……帰ろう)


 そう思ったのに、扉の前から動けない。


 拳を握りしめ、

 小さく息を吸う。


 ――お願い。


 まだ声にも出していないのに、

 胸が、ひどく熱くなった。


 意を決して、ノックをする。


 一度。

 間を置いて、もう一度。


「……入れ」


 聞き慣れた声。


 扉を開けると、バルディンは机に向かっていた。

 書類から視線を上げ、こちらを見る。


 その目が――

 何も変わっていないことに、胸が詰まる。


「……どうした」


 淡々とした声。

 責めも、驚きもない。


 エリナは、一歩踏み出してから、止まった。


 言葉が、喉につかえる。


「……あの」


 声が、思ったより小さかった。


 沈黙。


 バルディンは、急かさない。

 ただ、待っている。


 それが、余計につらい。


 指先が、きゅっと握られる。


「……お願い、が……」


 言いかけて、言葉が途切れる。


 何をお願いしたいのか。

 自分でも、はっきりしない。


 ただ――

 放っておかれるのが、もう耐えられなかった。


 視線を伏せたまま、絞り出すように言う。


「……少しだけ……」


 沈黙が、落ちる。


 エリナは、心臓の音がうるさくて、

 相手の表情を確認する勇気が出なかった。


 ――言ってしまった。


 その事実だけで、胸が震える。


 次に何を言われるのか。

 拒まれるのか。

 呆れられるのか。


 それとも――


 エリナは、唇を噛みしめたまま、

 ただ、待つしかなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ