また、その目をしているな
夜の王宮は、昼よりも静かだった。
エリナは、王子の私室の前に立ち、深く息を吸う。
手にしているのは、いつも通りの薬膳。
それだけのはずなのに、胸の奥が落ち着かない。
「……入れ」
扉の向こうから、低く落ち着いた声がした。
中に入ると、部屋の灯りは控えめで、窓辺に置かれた燭台だけが淡く揺れている。
バルディンは、机から少し離れた場所に立っていた。
「置いていい」
「……はい」
言われた通り、卓に薬膳を置く。
それだけで終わる――はずだった。
けれど。
「エリナ」
名を呼ばれ、思わず背筋が伸びる。
振り向いた先で、バルディンはじっとこちらを見ていた。
昼間と同じ、穏やかな表情。
なのに、視線だけが――やけに深い。
「……また、その目をしているな」
ぽつりと落とされた一言。
心臓が、強く跳ねた。
「……っ」
何を言われたのか、すぐには理解できない。
ただ、見抜かれた、という感覚だけが先に来る。
バルディンは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
――ニッコリと。
責めるでも、咎めるでもない。
ただ、気づいている、と告げるような笑み。
その笑みに、胸の奥がきゅっと鳴った。
認められた。
それだけのことなのに。
何かを与えられたわけでもない。
褒められたわけでもない。
ただ、気づかれて、受け止められただけ。
それなのに、
心の奥で、しっぽのようなものが揺れてしまう。
(……ばかみたい)
そう思うのに、
嬉しさは、どうしても隠せなかった。
「……今夜は、それだけだ」
それ以上、近づいてこない。
触れもしない。
命令も、要求もない。
「下がっていい」
「……はい」
答えながら、エリナは自分の胸が不思議なほど静まっていることに気づいた。
何もされていない。
何も起きていない。
それなのに。
――見られていた。
――分かってもらえていた。
その事実だけで、胸の奥がじんわりと温かい。
一礼して部屋を出る。
扉が閉まった瞬間、ようやく息を吐いた。
(……何も、なかったのに)
歩き出しながら、唇に指先を当てる。
(……でも)
あの視線。
あの笑み。
拒まれなかった。
否定もされなかった。
それだけで、満たされてしまう自分が――少し、怖い。
(……私)
期待してはいけない。
分かっている。
それでも。
気づいて、笑いかけてくれた夜を思い出すだけで、
胸の奥が、また静かに熱を帯びていく。
――何もなかったはずの夜。
それなのに、
確かに“何か”を与えられてしまった気がして、
エリナはその感覚を振り払えないまま、回廊を進んでいった。
数歩進んでから、エリナはふと足を緩めた。
(……もう、会ってきたはずなのに)
ほんの短い時間。
言葉も、視線も、それだけだった。
それなのに――
もう一度、あの部屋に戻りたい衝動が、胸の奥で小さく疼く。
扉の向こうにいる姿を、思い出してしまう。
名前を呼ばれた声。
目を細めた、あの笑み。
(……早すぎる)
自分でそう思うのに、
気持ちは、言うことを聞いてくれなかった。
次はいつ呼ばれるのか。
次は、どんな目で見られるのか。
そんなことを考えてしまった瞬間、
エリナは自分の心に、はっきりと気づいてしまう。
(……また、会いたくなってる)
それが、少し怖くて。
それでも――
否定しきれないほど、自然な感情だった。




