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触れられないのに、縛られて

 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


 王子の私室は、執務室よりも静かで、灯りも落とされている。

 窓辺から差し込む午後の光が、床に細い影をつくっていた。


 エリナは、籠を胸に抱いたまま立っている。


「……そこに置いて」


 短い指示。

 それだけなのに、足がわずかに強張った。


 籠を置こうと一歩踏み出した瞬間、王子の気配が近づく。

 触れていない。

 それなのに、距離だけが急に縮まった。


 ――触れてしまいそうな距離。


「そのままでいい」


 低い声が落ちる。

 止められた足は、床に縫い留められたようだった。


「……顔を上げて」


 命令だった。


 エリナは、一拍遅れて視線を上げる。

 王子は、ほんの少しだけ身を屈めている。


 近い。

 近すぎるのに、触れない。


 視線だけが、ゆっくりと辿ってくる。

 薬草の籠から、指先、喉元、唇へ。


(……見られている)


 確かめられているのに、触れられない。

 その事実が、胸の奥をざわつかせた。


「動くな」


 静かな声。


 命令に従っているだけのはずなのに、

 なぜか、心臓の音が大きくなる。


(……いい反応だ)


 一歩も動かない。

 逃げない。

 言われた通りに、そこにいる。


 期待した通り――いや、

 期待以上に、素直だ。


「……よく手入れされているな」


 薬草の話のはずだった。

 けれど、その言葉は、どこか別の意味を帯びて聞こえる。


 王子は、手を伸ばさない。

 伸ばさないまま、距離だけを保つ。


 触れない――

 それが、意図的だと分かってしまうから、逃げ場がない。


「君にしか頼めない」


 ぽつりと落とされた一言。


 それだけで、胸が跳ねた。


(……ほら)


 分かりやすい。

 必要だと言われると、迷わず反応する。


 期待している。

 拒まれないと、どこかで信じている。


 ――その顔を、待っていた。


「……以上だ」


 ふいに、距離が戻る。

 何事もなかったかのように。


 命令は解かれたはずなのに、

 身体の緊張だけが、取り残された。


「下がっていい」


「……はい」


 頭を下げるとき、視線が一瞬だけ絡む。


 王子は、穏やかに微笑んでいた。

 まるで、何も起きていないかのように。


 ――それが、いちばん怖かった。


 部屋を出たあとも、

 胸の奥に残る熱が、なかなか引かなかった。


(……どうして)


 触れられてもいない。

 命令されたのも、ほんの一言。


 それなのに。


 思い出すだけで、

 心臓の音が、少し速くなる。


(……私)


 ふと、足を止める。


(私、こんな反応をする人間だった?)


 顔が、じわりと熱くなった。


 怖かったはずだ。

 危ないと思ったはずだ。


 なのに――

 拒むどころか、胸の奥がざわついて、

 それを「不快」と切り捨てられなかった。


(……変だ)


 自分で、自分が分からない。


 こんなふうに見られて、

 命令されて、

 触れられない距離に縛られて。


 それを――

 どこかで、待ってしまっていた。


(……私、淫らなの?)


 そう思った瞬間、

 恥ずかしさが一気に込み上げる。


 妃候補として。

 一人の人間として。


 そんな感情を抱いていいはずがないのに。


 それでも。


 胸の奥で、

 小さく、否定できない声がする。


(……嫌じゃ、なかった)


 その事実を認めてしまったことが、

 何よりも、恥ずかしかった。


 エリナは、ぎゅっと唇を噛みしめる。


 自分を戒めるように、

 胸元を押さえて。


 ――知らなかった自分を、

 知ってしまった夜だった。

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