何もなかったように、朝は来る
朝の回廊は、柔らかな光に満ちていた。
妃候補たちがそれぞれの侍女を伴い、談笑しながら行き交っている。
エリナは、薬草の籠を抱え、静かにその列に混じっていた。
――何も、変わらない。
昨夜のことが嘘だったかのように、王宮はいつも通りで。
誰も、知らない。
誰も、気づいていない。
それが、少しだけ――怖かった。
「おはようございます」
背後からかけられた声に、エリナの肩がわずかに強張る。
聞き覚えのある、穏やかな声音。
振り返ると、そこに立っていたのは第一王子バルディンだった。
整えられた衣装。
完璧な微笑み。
公の場にふさわしい、非の打ちどころのない佇まい。
「……おはようございます、殿下」
エリナは慌てて頭を下げる。
周囲の妃候補たちも、揃って礼をした。
「皆、よく集まっているね」
王子は柔らかく言い、視線をゆるやかに巡らせる。
その視線が――
一瞬だけ、確かにエリナのところで止まった。
ほんの一瞬。
誰も気づかないほど短い間。
それでも、エリナの胸は小さく跳ねた。
「最近は、薬草の管理が随分と安定していると聞いている」
王子は続ける。
「君のおかげだな、エリナ」
名を呼ばれたことに、息が詰まる。
「い、いえ……皆で協力していますので」
当たり障りのない返答。
それ以上でも、それ以下でもない。
王子は満足そうに頷いた。
「謙虚だ。だが、評価されるべき働きだよ」
それだけ言うと、王子は自然に視線を外した。
昨夜のことには、触れない。
外套のことも、夜の街のことも。
何ひとつ、なかったかのように。
その態度に、胸の奥がひやりと冷える。
(……本当に、何もなかったみたい)
安心していいのか。
それとも――。
王子はそれ以上、何も言わなかった。
他の妃候補たちに向けるのと同じ、穏やかな笑みを浮かべ、何事もなかったように話を切り上げる。
――それだけ。
特別な視線も、意味深な間もない。
なのに。
エリナだけが知っている。
あの夜の声も、距離も、沈黙も、すべてが“同じ人”のものだったことを。
(……平然としてる)
胸の奥が、じわりと熱を持つ。
何もなかったように振る舞われるほど、
自分だけが取り残されている気がした。
それが、いちばん――苦しかった。
隣にいた妃候補の一人が、ひそひそと声を落とす。
「殿下、最近お忙しそうよね」
「ええ。でも相変わらずお優しいわ」
いつもの噂話。
いつもの王子。
エリナだけが、そこから一歩、取り残されている気がした。
王子は軽く会釈をして、その場を離れていく。
去り際、もう一度だけ。
本当に、偶然のように。
エリナと、視線が合った。
何の感情も浮かべていない、穏やかな瞳。
――けれど。
昨夜と同じ香りが、ふっと風に乗って届いた。
それだけで、胸がざわめく。
(……考えすぎ)
そう自分に言い聞かせる。
だって、殿下はいつも通りだった。
何も、変わっていない。
変わってしまったのは――
きっと、自分の方だ。
エリナは、籠を抱え直し、前を向いた。
王子の背中は、もう遠い。
それなのに。
なぜか、
昨夜よりもずっと、強く意識してしまう自分がいた。




