逃げ道を、残してやる
扉が閉まったあとも、男はしばらく執務室を動かなかった。
机に戻るでもなく、
書類に目を落とすでもなく。
ただ、さっきまで立っていた場所を見つめていた。
(……だって)
あの一瞬の間。
言葉を飲み込んだ、あの沈黙。
あれは、迷いじゃない。
――選択だ。
言えば壊れると分かっていて、
それでも感情が喉まで来ていた。
(ああ)
思っていた以上に、
俺の存在は、深く入り込んでいる。
気づいていないふりをしたのは、
俺の方だ。
今はまだ、
逃げ道があると思わせておいた方がいい。
その方が――
ずっと、面白い。
(ああ……そういうことか)
男は、ゆっくりと息を吐く。
街に出ていた理由。
夜に、何度も。
偶然ではない。
好奇心でもない。
――俺に会うためだ。
確信した瞬間、
胸の奥に、熱が灯った。
(気づいていない“ふり”をしていただけだな)
香りも、声も、距離も。
一致していると、何度も思っていたはずだ。
それでも否定したのは、
真実よりも、逃げ道を選んだから。
だが。
あの「だって……」は違う。
知っている人間が、
知らないふりを続ける限界を越えた瞬間の声だ。
(可笑しいな)
口元に、自然と笑みが浮かぶ。
あれほど距離を取ろうとしていた女が、
それでも俺を探していた。
俺に会うために、夜に出ていた。
(……思った以上に、素直だ)
そして――
思った以上に、
自分の存在を向けてくる。
男は、椅子に腰を下ろし、
指先を組んだ。
(ーー捕まえた)
その言葉が、
何の抵抗もなく浮かぶ。
けれど。
すぐに、次の思考がそれを制した。
(いや……まだだ)
今、閉じるのは早い。
確信させた瞬間に、
檻を閉めるのは、下策だ。
逃げ場があると思わせている今だからこそ、
自分から近づいてくる。
(……よく耐えたな。俺も)
問い詰めなかった。
名を呼ばなかった。
正体を突きつけなかった。
あそこで一歩踏み込めば、
泣かせることも、縋らせることもできただろう。
だが。
(泣かれるのは……今じゃない)
あの夜の涙を思い出し、
ほんのわずかに眉をひそめる。
予想外だった。
あの反応だけは。
泣かせるつもりは、あった。
だが、ああいう泣き方ではなかった。
(……まあいい)
結局、
結果は変わらない。
あの女は、
もう俺を見ないでいられない。
執務室の静けさの中で、
男はゆっくりと立ち上がる。
窓の外には、夜の王都。
無数の灯り。
そのどこかで、
今もきっと、考えている。
――言わなかった言葉の続きを。
(言わなくて正解だ)
自分から言うまで、
待ってやる。
そのほうが、
ずっと面白い。
男は、静かに目を細めた。
(次は……)
薬草か。
薬膳か。
それとも――
もっと、近い距離か。
確信はもうある。
焦る必要はない。
檻の扉は、
すでに開いている。
中に入るかどうかは――
彼女自身に、選ばせればいい。
その選択が、
どこへ続いているのかを知らないまま。




