優しい声で、檻の前まで連れてこられた
王宮の回廊は、昼でもひどく静かだった。
石造りの床を踏む足音が、やけに大きく響く。
案内の従者に導かれながら、エリナは胸元で指を握りしめていた。
――呼び出し。
理由は告げられていない。
ただ、第一王子が会いたがっている、とだけ。
(……どうして)
体調を崩して仕事を休んだことだろうか。
それとも、昨夜のことがどこかで――。
考えかけて、首を振る。
余計なことを考えても、意味はない。
扉の前で足が止まり、従者が一礼する。
「こちらでございます」
ノックの音が、やけに遠く感じた。
「――入れ」
低く、落ち着いた声。
エリナは一瞬だけ息を詰め、それから扉を押した。
⸻
執務室は、整いすぎるほど整っていた。
広い机、書類の山、差し込む光。
そして――
机の向こうに立つ、第一王子バルディン。
整った姿勢。
柔らかく整えられた表情。
王子としての、完璧な佇まい。
「来てくれてありがとう、エリナ」
穏やかな声だった。
驚くほど、丁寧で、静かな声音。
エリナは一瞬、瞬きをする。
(……違う)
夜の街で聞いた低い声とは、どこか違う。
あの人の声は、もっと無遠慮で、もっと近かった。
(……別人、だよね)
そう思った瞬間、
胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
王子様が、
あの夜の人なはずがない。
「体調はどうだ?」
問いかけは事務的で、けれど気遣う響きがあった。
「……少し、休めば大丈夫です」
「無理はするな。君は、最近よく働いていたからな」
淡々とした言葉。
責めるでも、探るでもない。
エリナは小さく頷いた。
(考えすぎだ)
あの人と、この人が同じだなんて。
そう思う方が、おかしい。
そう――思おうとした、そのとき。
バルディンの視線が、ふとエリナの肩口に落ちた。
外套は、もう身につけていない。
それでも、その視線は一瞬、確かに“何か”を確かめるように留まった。
「君は、よく夜に出かけるらしいな?」
「……だって――」
そこまで言いかけて、エリナは息を詰めた。
(だって、それは――
あなたに会うために、出かけていたから)
その言葉が、喉の奥で凍りつく。
言ってはいけない。
口にした瞬間、何かが決定的に変わってしまう。
「……いえ。すみません。以後、控えます」
バルディンは、ほんの一瞬だけエリナを見つめたあと、
ふっと口元を緩めた。
「それだけで十分だ」
にっこりと、穏やかに笑う。
――その笑顔が、
なぜか胸の奥を冷やした。
「お呼びいただき、ありがとうございました。ご用件がそれだけでしたら……」
逃げるような言葉だった。
バルディンは、それを止めなかった。
ただ、薄く微笑む。
丁寧で、穏やかな声。
それだけで、拒む理由が見つからなくなる。
逃げ道が用意されているようで、
気づけば――もう一歩も、外へ出られない。
「今日は、それでいい」
――今日は。
その一言が、なぜか耳に残る。
「下がっていい」
「……失礼します」
エリナは一礼し、執務室を後にした。
⸻
扉が閉まったあと。
バルディンは、しばらくその場に立ったままだった。
(……気づいている)
いや。
正確には――
気づいていながら、必死に否定している。
そういう顔だった。
執務机に手をつき、ゆっくり息を吐く。
(都合のいい自己暗示だ)
――だが、それでいい。
今は、まだ。
確信されるには早い。
逃げ場があると思わせておいた方が、楽しい。
バルディンは、口元をわずかに歪めた。
(檻に入るのは、もう少し先だ)
だが、その扉の前まで、
確実に連れてきている。
それだけは、間違いなかった。




