優しさの中で、私の居場所だけが消えていく
朝の王宮は、いつもと変わらない静けさに包まれていた。
回廊に差し込む光も、すれ違う侍女たちの足音も、昨日と同じ。
それなのに――エリナは、胸の奥にわずかな違和感を覚えていた。
体調は、まだ万全とは言えない。
けれど、仕事に戻れないほどではないはずだった。
そう思って薬草庫へ向かうと、扉の前で足を止められる。
「あ……エリナ様。今日はもう結構です」
年若い侍女が、困ったように笑った。
「昨日の分は、別の者が済ませましたから」
「……そう、ですか」
理由は、それだけ。
叱責もなければ、注意もない。
ただ、自然に――役目だけが外されていた。
(……気のせい?)
そう思い直し、次の仕事を探す。
けれど、どこへ行っても同じだった。
「こちらは、もう人手が足りています」
「今日は休んでくださいね」
「無理をなさらないで」
皆、優しい。
皆、丁寧だ。
それが、かえって胸に引っかかった。
誰も責めていない。
誰も問い詰めてこない。
なのに、自分だけが――少しずつ、輪の外に置かれている気がする。
昼前、中庭を通りかかると、遠くで視線が合った。
すぐに逸らされる。
ひそひそとした声は聞こえるのに、内容までは届かない。
まるで、最初から“聞こえない距離”に置かれているようだった。
(……私、何かしましたか?)
答えは、浮かばない。
思い当たる失敗も、咎められる覚えもない。
それでも、空気だけが確実に変わっていた。
午後、部屋に戻ると、いつもより早く「休養を」と告げられた。
断る理由もなく、従うしかない。
窓辺に腰掛け、王都を見下ろす。
人々は、いつも通り行き交っている。
世界は何も変わっていない。
――変わったのは、自分の立ち位置だけ。
ふと、あの夜のことを思い出した。
外套の重さ。
冷たい声。
そして、何も終わらなかった感覚。
(……考えすぎ、よね)
そう言い聞かせても、胸の奥のざわめきは消えなかった。
その頃。
回廊の影で、ルシアンは立ち止まっていた。
エリナの姿を見かけない。
正確には、“見かけなくなった”。
いつもなら、朝に薬草を運ぶ背中が見えるはずだ。
それが、ない。
周囲に尋ねても、返ってくるのは同じ言葉。
「体調を考慮して」
「上の判断です」
――上。
誰のことか、考えるまでもなかった。
(……兄上)
何か命令が出たわけではない。
だが、誰もが“察して”動いている。
それが、何より厄介だった。
その夜。
王宮の執務室で、男は書類に目を通していた。
特別な指示は出していない。
誰の名も呼んでいない。
ただ一度だけ、淡々と言った言葉がある。
「無理をさせるな」
それだけ。
それだけで、十分だった。
男は、ペンを置き、窓の外を見た。
(……何もしていない)
事実だ。
自分は、まだ何もしていない。
それなのに。
あの女の居場所は、少しずつ狭くなっている。
王子は、口元をわずかに緩めた。
(――気づかないままでいればいい)
エリナは、まだ知らない。
優しさの形をした囲いが、
もう、静かに閉じ始めていることを。
そして。
“何もしていない”その沈黙こそが、
一番、逃げ場を奪うということを。




