小さな不在が、すべての答えだった
朝の王宮は、いつもと同じように静かだった。
けれど。
男は、ほんの小さな違和感に気づいていた。
(……来ていないな)
執務室へ向かう途中、無意識に視線を走らせる。
毎朝、薬草を運ぶ妃候補の姿。
あの女――エリナは、いなかった。
昨日も。
その前も。
理由を尋ねるほどのことではない。
妃候補の一人が体調を崩すなど、珍しくもない。
それでも。
(……続いている)
男は、歩みを止めることなく、胸の内で考える。
偶然ではない。
勘とも言い切れない。
ただ、積み重なった「小さな不在」が、
確かに引っかかっていた。
執務室に入り、扉を閉める。
「妃候補の動向報告を」
淡々と命じる。
従者は一瞬だけ間を置いてから答えた。
「エリナ様は、今朝はお休みを取られております。
体調が優れないとのことで」
「……そうか」
それだけ返し、男は机に向かった。
だが、書類に目を落とす前に、
引き出しを開ける。
妃候補の資料。
最初に目を通したはずのものを、
もう一度。
(……確認だ)
そう言い聞かせる。
名前。
年齢。
家柄。
特記事項。
順に視線を滑らせ、
やがて、ある一行で止まった。
――出身地。
(……この地名)
指先が、紙の上で静止する。
記憶の奥が、わずかに軋んだ。
見覚えがある。
いや、正確には――知っている。
かつて。
治癒能力者が多く暮らしていた土地。
城に仕えていた一族の出身地。
そして。
(……母が)
言葉にする前に、思考を切り捨てる。
感情を挟むのは、まだ早い。
男は、ゆっくりと資料を閉じた。
(治癒能力者は、自分を治せない)
それは、昔から知られている事実だ。
代償を他者に押し付ける力。
だからこそ、忌み嫌われ、排除された。
では。
昨夜、治っていたルシアンの傷は?
(……誰かが治した)
医師ではない。
薬でもない。
そして今。
治した「誰か」が、
体調を崩して姿を見せない。
偶然だと、片づけるには揃いすぎている。
(治していたのか)
誰かを?
それとも――
男は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
(……あいつだな)
確信だった。
声に出す必要はない。
問い詰める必要もない。
すでに、答えは出ている。
資料を元の場所に戻し、
引き出しを閉める。
表情は、何ひとつ変わらない。
(見つけた)
そう思った瞬間。
胸の奥に、冷たい喜びが広がった。
探していたもの。
憎んでいたもの。
――欲しかったもの。
すべてが、
ひとつの名前に重なっていく。
(……逃がすわけがない)
男は、静かに椅子にもたれかかった。
まだ、動かない。
まだ、捕まえない。
壊れやすいものほど、
慎重に扱うべきだ。
そして。
何も知らない顔で、
そこにいるあの女を思い浮かべる。
(お前が、そうだったか)
それが運命なのか。
それとも、ただの皮肉か。
答えは、どうでもいい。
重要なのは――
もう、見逃さないということだけだった。
第二王子が、ためらうようにその扉の前に立った。
——エリナの部屋だ。
(――やはりな)
確信した瞬間、不思議と心は静まっていた。
怒りも、焦りも、ない。
ただ、点と点が線になっただけだ。
長く探していたものが、
最初から手の届く場所にあった――
それだけのこと。
男は、書類を閉じる。
もう調べる必要はない。
問い詰める必要もない。
(知らないままでいさせてやろう)
気づいていないのは、あの女だけだ。
それでいい。
その方が、都合がいい。
男は、机に指を置いたまま、ゆっくりと目を伏せた。
(次は……逃がさない)
声に出さず、そう結論づける。




