傷が、なかった朝
医務室は、朝の光に満ちていた。
白いカーテンが揺れ、薬草の匂いが静かに漂っている。
ルシアンは寝台に腰掛け、額にそっと指を当てた。
――痛みは、ない。
いや。
痛みどころか、違和感すら残っていなかった。
昨夜、確かに頭から血を流していたはずだ。
医師の顔も、侍女たちの慌ただしい声も、はっきり覚えている。
それなのに。
(……傷跡すら、ない)
鏡を取らせ、何度見ても同じだった。
塞がった、という表現すら違う。
最初から、傷など存在しなかったかのように――完璧に。
「……これは」
胸の奥が、ざわりと揺れた。
幼い頃の記憶が、否応なく蘇る。
母がまだ生きていた頃。
城には、治癒の力を持つ者がいた。
触れられたあとに残るのは、
痛みの消失と、傷跡のない皮膚。
(……あのときと、同じだ)
だが、治癒能力者はもういない。
そう聞かされてきた。
母の死のあと、城から姿を消したと。
ルシアンは、ゆっくりと息を吐いた。
(……では、誰が)
自分は、眠っていた。
治癒の瞬間を、見ていない。
だからこそ――確かめる必要があった。
ルシアンは、控えていた従者を呼び寄せた。
「昨夜のことだ。
私が眠っている間、この医務室を出入りした者はいるか?」
従者は一瞬だけ考え込み、
慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「……はい。お一人、いらっしゃいました」
胸の奥が、きゅっと締まる。
「誰だ?」
「妃候補の一人、エリナ様です」
その名を聞いた瞬間、
時間が、ほんの一拍止まった。
「エリナ様は、夜更けに医務室を出て行かれました。
顔色が悪く、少し……ふらついておられたように見えました」
それで、すべてが繋がった。
(……やはり)
薬草に詳しい理由。
夜遅くまで起きていたこと。
そして、今のこの傷。
偶然で済ませるには、揃いすぎている。
ルシアンは、静かに拳を握りしめた。
(……治癒能力者)
もし、それが事実なら。
兄は――
第一王子は、決して放っておかない。
母の死。
治癒能力者への歪んだ憎悪。
それを、ルシアンは知っている。
だからこそ。
(……エリナ様)
このことは、守らなければならない。
少なくとも、
兄上が気づく、その前までは。
ルシアンは、何事もなかったかのように立ち上がり、
窓から差し込む光を背に、静かに目を伏せた。
――これは、
偶然では終わらない。
そう、確信しながら。
ルシアンは、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥に沈んでいく感覚は、驚きではなく、諦めに近い。
――あの力は、確かに存在している。
かつて城にいた治癒能力者。
母の死とともに消え、
二度と語られることのなくなった“力”。
(まさか……)
その名を、心の中で呼ぶことすら躊躇われた。
もし、本当にそうなら。
もし、エリナ様が――。
ルシアンは、無意識のうちに拳を握りしめていた。
守らなければならないものが、
思っていたよりも、ずっと近くにある。
それが、
この城にとって「希望」なのか、
それとも――
再び繰り返される悲劇なのか。
まだ、分からなかった。




