捨てろと言われて、立ち尽くした
(今、会ったら)
何を言われるだろう。
何も言われずに、突き放されるかもしれない。
それとも――
何事もなかったような顔をされるかもしれない。
どちらも、怖かった。
けれど。
このまま背を向けたら、
外套だけでなく、
自分の気持ちまで置き去りにしてしまう気がした。
エリナは、そっと息を吸う。
(……返すだけ)
何度目かの言い訳を胸に押し込み、
ようやく、扉に手を伸ばした。
⸻
男は、カウンターに肘をつき、グラスを傾けていた。
気配に気づき、視線だけを向ける。
ほんの一瞬。
それだけで、分かった。
「……何の用だ」
冷たい声。
エリナは、一歩前に出て、外套を差し出した。
「これを……お返しします」
声が、少し震えた。
「もう、必要ありませんから」
男は外套を一瞥しただけで、受け取ろうとしない。
「……それで終わりにするつもりか」
問いかけは低く、感情を伏せた声だった。
確かめるというより、
もう答えを分かっているような響き。
エリナは、一瞬だけ息を詰めた。
「……はい」
その返事を聞いて、
男はわずかに視線を逸らす。
「いらないなら、捨てろ」
淡々とした一言。
突き放すようでいて、どこか投げやりだった。
どうせ、捨てる。
そう決めつけてしまえば、
余計なことを考えずに済む。
捨てたところで、また別のやり方を考えればいい。
そうやって、今までもどうにかなってきた。
——そう思っていた。
その瞬間。
(……そう)
返して、離れて、
これで終わりにするつもりで来た。
分かっていた。
最初から、そのつもりだった。
だからこそ、
この外套を返しに来たのだ。
――終わらせるために。
なのに。
その言葉を向けられた瞬間、
胸の奥で、何かがずしりと沈んだ。
(……捨てる、なんて)
外套だけのはずなのに。
この夜も、
この声も、
ここへ来る理由も――
すべてまとめて、
なかったことにされる気がした。
エリナは、外套を抱えたまま、その場に縫い留められたように立ち尽くした。
(……捨てることなんて、できない)
それが、答えだった。
視界が、滲む。
涙が、ぽろりと落ちた。
「……すみません」
零れた声は、思ったよりも小さくて、
自分でも驚くほどだった。
理由なんて、考えていなかった。
泣くつもりも、なかった。
ただ――
その言葉を向けられた瞬間、
胸の奥に溜まっていたものが、
静かに崩れただけだった。
エリナは、外套を抱えたまま動けなかった。
どうして涙が出たのか、
自分でも、うまく分からない。
分からないのに、
止めようとしても、止まらなかった。
男は、わずかに眉をひそめた。
「……なぜ泣く」
答えを求めるようでいて、
どこか苛立ちを含んだ低い声。
エリナは、言葉に詰まった。
「……分かりません」
自分でも、本当に分からなかった。
その沈黙に、男は舌打ちしそうになるのを堪え、短く言った。
「……泣かせるつもりはなかった」
低く、短い声。
苛立ちが混じっているようにも聞こえた。
エリナは慌てて涙を拭おうとしたが、うまくいかない。
「ごめんなさい……私、自分でも、どうして……」
言い終わる前に。
ふいに、肩に温もりが落ちた。
外套だった。
男が、無言で掛け直しただけ。
それ以上、何もしない。
触れたのは一瞬なのに、胸が苦しくなる。
「……それを、返しに来ただけだろう」
「……はい」
「だったら、もう行け」
冷たい言葉。
それなのに、外套は外されないままだった。
エリナは、唇を噛みしめ、静かに頷いた。
「……失礼します」
背を向ける。
一歩、二歩。
振り返らなかった。
振り返ったら、きっと――戻ってしまう。




